研究と勉強は違う

身体感覚の世界に出会ったとき、あまりの不思議さと手掛かりのなさに途方に暮れた。それまでやってきたことがまるで通用せずに頭の中が真っ白になった。その驚きが今にまで続いている。
運がよかったので気がつくと一人稽古を楽しめるようになった。そしてわかってきたことがある。勇気をもって今大切だと思っていることを手放すことが必要だ。
その一つが「勉強」。しっかりとシステム化された教育が日本にはある。いつの間にか順位だけを争うことに一生懸命になり自らが探り出すことの楽しさを知らずに大人になる人が多いのではないか。
「研究」をしています、と言葉にするのには時間がかかった。自分にそんな資格があるとは思えなかったから。しかし、遠回りはしなくてもよかった。誰もが研究していい。今日は「研究のススメ」。

・師匠に遠慮していないか
私は運がいい。まず、師匠がいない、というのがどうやら珍しいらしい。
甲野先生を私は師匠だと思っているが、甲野先生は私を弟子だとは思っていないはず(笑)。20年間勝手に師匠だと決めて追いかけている。
実は甲野先生に出会う前にも師匠がいない。たまたま父が道場を持っていたので自然と学び始めたが父は師匠ではなかった。ワザとなのか知らないが、あまり押し付けられることなく、技を覚えていった。今思うとこれが良かった。
何かを変えようと思う時、それを教えてくれた師匠の事が頭に浮かぶ。大切な師匠を自ら否定するのは難しい。しかし、研究するためには必要なこと。

・自分なんかに研究ができるはずがない
今日は研究をおすすめしたい、と言葉にしているが、初めからそんなことができたわけではない。稽古をすれば技はかわり、自分は変わっていったが、結構長い間、研究しているつもりはなかった。そして、研究をしている、と公言するのにも勇気がいった。自分なんかにできるはずがない、と思い込んでいたから。
しかし、言葉にして覚悟を決めてみるとさらに新しい感覚に気づくスピードが上がっていく。ぜひ、ご自身で研究を始めてみてほしい。

・インターネットが普及する前のこと
改めて文字にしていて思うことがある。今はインターネットで簡単に「正しい」知識が手に入る。実はその「正しい」知識は大勢が「常識」だと認識したものであり、実際には全然正しくはない。
例えば筋トレ。強くなりたい、と考えてトレーニングを始めれば最初に思いつくこと。より大きな力を出そうとした時、筋肉の力は借りやすい。だから、それが必要で正しい、と思ってしまう。そして、ネットを検索すれば細かくそのトレーニング方法が見つかる。しかし、これは武術の世界では間違い。
インターネットがなかった頃は情報は口伝、もしくは書籍ぐらいしかなかった。情報を得ても実際に試す時、自らの身体感覚が方向を指し示してくれたはず。
あちらこちらに「強い人」はいて、その強さもバリエーションに飛んでいたのではないか、と思う。
情報がなかったおかげで人の持つ不思議な可能性が発揮されやすい環境だったと思う。

・勉強と研究がどう違うかを研究してみたらいい
とはいえいきなり研究をしようと思っても手がかりがないし、やっぱり、自信も持てないかもしれない。だから、まず、今自分の学び方は勉強なのか、研究なのかを考えてみたらいいと思う。勉強と研究の違いを研究できる。
そういえばしばらく、「練習」と「稽古」もうまく使い分けることができなかった。甲野先生は「稽古」と言われていた。しかし、私はずっと「練習」をしていた。自分が行っていることを「稽古」と言葉にするのも照れていた時期がある。それでも、稽古と言う言葉を使い続けて今は自信を藻って稽古と言えるようになった。言葉には力があるようだ。

・研究の対象は小さい方がいい
最後にひとつ。研究をする時、あれもこれも、とやると大変。慣れていないのに手を広げるとついついまた、ノルマ化してしまいがち。私は「手をあげるだけ」に特化して研究した。何でもいい。立ち方、歩き方、肩凝りがあるならそれを研究してもいい。
生活のすべてをそのひとつに集中させれば必ず成果が出てくる。保証します。ぜひ、研究してみてください。そして、ぜひ、聞かせてください。

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