なにもなくても大丈夫

たくさんの情報が手に入る時代になった。困ったことがあっても、ちゃんとどうすればいいのか、答えが手に入る。インターネットのおかげだ。

ただ、実際に問題を解決しようとすると違った問題が現れる。
それはやってみたけど、できなかった、という問題。うまく手に入れた答えが使えればいいのだが、案外それは難しかったりする。出来なかった時には次の答えを求めればいいのだが、何度も失敗を重ねると元気がなくなってしまいがちだ。

常識的には答えを求め、解決をする道を探せばいいのだが、それでもダメだ、と思ってしまった時にだって私は大丈夫だ!と強く伝えたい。なにもなくても、どうなってしまったとしても大丈夫だ、というのが身体を探ってきて得た確信だ。

その理由はこう。

答えを先に得てやろうとすると考え方が先に走りがち。心と体を置いてきぼりにする。答えを得たのにうまくいかない場合の理由の一つはこれだろう。答えは間違いないのに、自信が持てなくて心を壊し、身体を崩す。

身体に従う暮らし方は答えを求めなくてもいい。インターネットがなくても心穏やかで幸せな人たちはたくさんいたはずだ。知識があふれていなかった時代に生きていた人は自然と身体に従う生き方をしていたと思う。それを思い出し、実践すればいい。

一つ例を挙げたい。
もし大失敗をしてしまった時。また失敗でなくても、病気やケガ、予期せぬアクシデントで思うとおりにならなかった時、心と身体は痛みを感じる。苦しさを得る。

その時、初めて身体がそこにある、と自覚できる。痛いから、苦しいからと思考停止になりがちだが、ちょっとだけ、観察に意識を向ければ、痛みと苦しさの中にも「どう苦しいのか」、「どこが痛いのか」と違いが分かってくる。何度も痛みや苦しみを経験していればその人は強くなる。二度目、三度も、四度と経験を重ねていけば慣れも生まれる。この慣れというのも人間が持つ素晴らしい力だ。

観察をして手に入れた発見は自分だけのもの。常識的な答えとは違う時もあると思う。しかし、それに従って、少しだけ考え方や動き方を変えてみる。何かを変えれば結果は変わる。変わらないように見えるのは慣れていないから。観察が慣れてくればほんの僅かな動き、考え方の変更で結果が変わってくるのがわかってくる。これも、慣れだ。

正しい答えが得られなくても、ちゃんと導いてくれる先生がいなくても、どんな社会になっても、歳を重ねておいてしまっても、病気やケガになったとしても、どんな事があったとしても、身体はここにあり、観察をさせてくれる。

何千年、何万年、何億年、どれだけ人間は命をつないできたかはわからない。しかし、何もなくても、ちゃんと生き延びてきている。その強さを土台にすれば、今溢れているたくさんの知識をさらに活かして、素晴らしい未来を作れるだろう。青臭いがそんな希望を私は持っている。

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