嗅覚と味覚 その2

前回、味覚について書きすぎて、嗅覚の説明が疎かになってしまった。今日は前回の補足。

味覚に気づく事ができたのも、運という場所に気づき、無限にエネルギーを感じる事ができたから。この身体を支えてくれる力として運という場所からの力が使えると気づいた。

この「運という場所」を意識した時、どうやら「嗅覚」が優位に立っている気がしている。もちろん、当初はそんな事を感じる余裕もなく、ただ、そこにある少し粘り気のある力が降りてくるように感じただけ。肉体を通し、触覚として自覚できる事を嬉しく、頼もしく思った。

その後、身体が強く支えられ、結果として丈夫になった事で、身体が壊れてしまう心配から離れる事で、目の前の状況、相手を余裕を持って観察ができるようになった。
そして、これは「味覚」だ!と気づき、「味わう」事の意味を実感した事で、運という場所を感じている時の状態を「嗅覚」優位の状態だと認識するようになった。

嗅覚とは

嗅覚と言っても、普段はあまり活躍しない。鰻屋だってもくもくと煙を出さなくなっている(笑)。
何十年かの間に日本という国から匂いがなくなった。もちろん、自然の。
その代わりと言ってはなんだが、清潔で綺麗、という国になった。

嗅覚を意識しなくなれば、より、聴覚や視覚に集中できる。音や光は日々、進化をし、まさにそこに「ある」かの様なテクノロジーまで生まれている。これは確かに凄い事。
しかし、だからと言って、触覚、味覚、嗅覚が疎かになっていいはずはない。

嗅覚は何も聞こえない、何も見えない、そしてもちろん、触れる事もできない、何も「ない」、という状態であっても、そこに何かが「ある」という感覚を与えてくれる。
当人だけは何かを察知し、それに合わせた対応を身体は行う。きっと、周りの人間はそれをおかしく見るだろう。

まだ見ぬ世界、状態を感じる時、人は匂いを感じるのかもしれない。

焦げ臭い、焦げ付く、こんな言葉がある。
鍋を焦げ付かせるのは普通だ。しかし、貸した金が返ってこない時にも使われる。
優れた銀行マンは焦げ付かせる客を見分けるのが上手い、そんな事をどこかで聞いた。データを集めて、分析し、統計をとって返済が下手くそだ、と結論づけているわけではないだろう。
言ってみれば「勘」である。嗅覚のレベルが違えば、決めつけだ。データによる裏付けがなければ動けない現代では中々使えない判断になるかもしれない。今の銀行員はどんなレベルなのだろう。

また、「胡散臭い」という言葉だってある。
人生を生きていくのに、胡散臭さを嗅ぎ分ける力がどれだけ重要な事か。しかし、高度にシステム化された社会はそれを要らなくさせている。
コンピューターによって生まれるサービス。細分化されたサービス、また、小さく書かれた規約によって守られる法律、失敗した時の保険だってある。胡散臭いものに出会い、被害を受けてもなんとか命は救われてしまうようになった。

嗅覚だってもっと活躍をしてもいい。そして、それを確かに実感をし、磨く時、「運」という身体感覚が役に立つ。そう確信をしている。



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