誰もが選ばれて、今、ここに立っている。

「正しさ」って不思議だ。
これだけ多くの人がコミュニケーションをするようになると、「正しさ」がいくつも現れる。
私なんかはずっと、こだわりなく生きてきたので、声の大きい人、熱意のある人、とてつもなく運のいい人、また、とっても苦手な人の影響を受けてその都度、正しさが変わってしまっていた。

そして、そんな自分が嫌だった。なんとか信念のある人間になりたい、と願ってはみたものの、どれだけ知識を入れてもダメ。むしろ、知識を集めれば集めるほど、矛盾が広がり、どんどんと決断が出来なくなっていった。

しかし、「身体」に新しく見つかる感覚から得る事からだけは信念へとつながっていく。私が稽古にのめりこめるようになり、習慣にもなったのはこの喜びからかもしれない。

そして昨日、9月15日、このノートのタイトル「誰もが選ばれて、今、ここに立っている。」という確信にたどり着いた。

これまで何度か、生まれてきたことには意味があるとか、聞かされてきた。あちこちで。
そして、無意味な人生であるよりも、生きる中で何かを求め、得られればいいなぁ、と思うようになっていた。しかし、なかなか確信にまではたどり着けない。

しかし、それが間違いなく、今ここにいる私はたくさんの私の中から選ばれて立っているのだ、という確信を持つ事ができたのだ。

言葉の上ではあぁ、そうですか、で終わってしまいそうだが、これが身体を通して生まれてきたというのが大切。この確信で私の動きは変わっていく。
いや、正確に書けば、動く前の自分の状態がゆるぎないままでいられ、崩れを生む要素がぐっと少なくなったという事。

実際に行動を始めればそこには様々な要素が必要。そこで出会う問題は心で対応するよりも、現実に存在する身体や環境を利用した方が早い。
ただ、何かが「始まる前」だけは私の心がなにより大切になる。

この時、「私は選ばれてここにいる」と感じられればその後行動へと活かす事がどれだけ有利な事か。その行動の元となる身体に関してはもう、たくさんの気づきを得てきた。そしてその気づきはたくさんの専門家に驚いてもらった事で自信にもなっている。
ただ、始まる前の不安だけはいつまでも取れなかった。それが取れたのだ。

なぜこの思いへと繋がったのかについてもちゃんと理由がある。
その理由も身体を通しての事だからはっきりしている。具体的には腕と手の関係を考えていて、そこで得た発見を手掛かりに考えを広げて行ったところ、納得を得る事ができたのだ。

その過程についてはちょっとややこしくもあるし、まだ身体を観察するのに慣れていない人にとっては想像するのも難しいだろうからまた、別の機会にしたいと思う。

今日はとにかく、

「誰もが選ばれて、今、ここに立っている。」

それを伝えたくてこのノートを書いた。これ、絶対です。

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