三つの歯車

 土曜に開催した名古屋稽古、そこで最近興味を持って探っている「左右」について話、どう手がかりを持って稽古をすれば良いのかを話した。
 これまで技的なものは伝えてこなかったが、左右の術理は外から見れば技に見えるかもしれない。
 手順に思えるような動きがはっきりとあるからだ。この「手順」によって、頭の中に強く残っていた観念を超えられた。私自身はこれに気づくまでに何年も、何十年もかけてしまったが、最初から、自身が持っている観念が間違っている、と自覚ができれば、こちら側の観念の世界も楽しめる。両方の世界を経験する事で、どちらの世界へも行けるようになる。身体の操作はスイッチのようなものだ。
 
 新しい観念に気づかせてくれたのは「左右」の役割の違い。夢と現実とが確実に分かれていて、それぞれの役割を果たしてみれば、考えもしないような動きが出てくる。
「左右」については新しく、noteにてマガジンを作った。夢とは何か、現実とは何か、身体とは何か、とテーマを固定し、まとめ始めた。今後、どんな展開になっても、そこにまとめていけば、蓄積され、視野の広さを得る手掛かりになると思う。
 
 一通り左右について伝え終わった頃、新しいものは無いかなぁと自然と模索が始まった。稽古に飽きるのだ(笑)。
 すでに出来る動き、確かな動きを求めるのは頭には心地よい。「出来る」とわかっている動きを、実際の経験を重ねていき、より確かなものにしていく作業だ。出来れば嬉しい。しかし、出来すぎて、確かになれば、今度は「飽きる」。
 稽古は興味を持って行われなければ続かない。頭に自覚を持って稽古を重ねれば必ずそこに経験値は貯まるが、続かない。死ぬまでの間、ずっと続けていくためには「飽き」に正直になる方がいい。
 
 模索の稽古は一般的には難しいもの。なぜなら、その時には「何もできない自分」を探さなくてはならないから。左右の役割を手に入れて、「やれてしまう」事が増えた。どんな状況になっても、左右の役割はなくならない。左右は磁石のような働きを持ち、第三者が入り込む余地がほとんど無い。私自身の中に左右を役割続けた時、私を抑えてくるストレスがどういうものであれ、何とかなってしまうのだ。
 
 この時「飽き」が必要なのかもしれない。飽きによって、これまでは大丈夫だった事を気にできる感性が手に入る。
 この日、飽きを得て試したのはやはり柾目返し、相手が優位のまま手を持たせ、それに対して何とかする稽古だ。
「柾目」という名のつく通り、一応は「まっすぐ前へ」を心がける。この時、右を持たれたならば、その右が進みたい道を決め、左が右を助けるようにすれば十分動く事が出来るのだが、出来るとわかった動きに飽きを手に入れて、同じ動きを試す気にはならなくなった。
 あえて右と左を生かさず、それでいて納得をして動くにはどうしたらいいだろう、と身体をあれこれ動かしながら試す。この時の様子は知らない人が見れば実に「みっともない」動き。抑えられたままで、苦しんでいるように見えるはずだ。
 
 しかし、求めれば必ず答えを返してくれるのが身体。今回、新しく見つかったのは「運の外側」。
 以前「運という場所」というブログを書いたが、それよりもさらに外側の「場所」がある事がわかった。
 
 左右を一通り伝えられた事で、左右への未練がなくなり、飽きを得て、何か別のものを探した時、「内と外」が出てきたという事になる。
 左右は誰にでもあるもの。そして、「内外」もそう誰にでもある。身体を通して探れるのはこうした、はっきりとした構造だ。
 
 運という場所について説明をしだせばまた、キリがない。運というエネルギーを持つ場所があり、その場所からこの肉体に力が降りてきて、現実の世界を変えてくれる。そんな働きを持っている。
 ただ、その仕組みが分かっても、現実である肉体が辛い時、運の力が足らなくなる時がある。今回、それを自覚した。
 しっかりと手を抑えてもらった上で動く。当然、動けない。動き始めた時、そこに衝突が生まれ、その衝突に心揺らされる。その衝突を許せるセンサーが急激に高まったのだ。これまでなら許せたものも、ほんの僅か、行きたい場所を設定しただけでも、許せなくなっていた。何かをしようとした自分を許せなくなったのだ。
 
 もし、こんな厳しいハードルを自然と得てしまっている生き方をしている人がいたなら本当に苦しい現実があるのだろう。何をしてもダメ、許せない、となるのだ。想像するのも辛い。どれだけ世の中、周りが便利で安全、平和で豊かになっても、自らの行動に自らでダメを出してしまうからだ。
 
 私は稽古の為にこの状況を擬似的に作り出した。求めてここにいるから、興味を持って何かを追い求めれられた。
 模索稽古が楽しめるようになると次々と新しい発見が生まれてくる。アイデアは無限に出てくるようになる。そして見つけたのは「運の外側の場所」。
 それがあるという事自体は予測もしていたし、確信もあった。しかし、その力を頼らなくてはいけない、という「必然さ」がなかったのだ。
 
 今回、「何をしようとしてもダメ」という感性を得て、無意識がそこを頼りにしようとしたのだろう。何をしてもダメなのだが、「そうなってしまえば」、「仕方なく」、動ける事を体験した。
 
 これが「三つの歯車」。これまで現実と運との間に関係を見つけ、肉体と運とが共に連動し、現実の状況を変えてきた。今回、運の外側にさらにもう一つ影響を与えてくれる「場所」を得た。その場所が先に動いた時、運という場所を刺激し動かす。その動かされた運という場所が、肉体という現実を動かしてしまう。
 
 抑えられた私の肉体。何をしようとしても許せない感性。その現実も、運の外から与えられる力によって現実を変えられるのなら、「仕方がない」と許せるのだ。
 
 動けば何かが変わる。変わるだけなら、簡単だ。大きな武器を使ったり、大勢の力を使えばいい。しかし、その現実の変わり方を許せない自分がいたら、どんなに平和で豊かでも、心と体は納得しない。
 
「仕方がない」という感覚。これを自覚できた事でこの先、どんな未来が拡がっていくのだろう。そして、この「仕方なさ」も、いつか、それもまぁ、一月、二月程で「飽きる」のだと思う(笑)。
 こんな模索稽古をしているので、中々稽古に定着をしてくれる人は少ない。ただ、それでも、この変化の量に興味を持ってくれて、常連さんになってくれる人がいる。きっと、すでにそれぞれの中に無意識だろうが、この世に対する疑問があったのだろう。
 その疑問を身体は解決してくれる。自分だけの疑問が持てた時、ちゃんと身体は答えを返してくれる。
 疑問と答えとが確実に連動している姿を見せる事も良いのかな、とちょっと思った。
 

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