心を捨てる

私にとっては当たり前になってしまったが、「身体感覚」に従う、というのは案外難しいらしい。
あらゆる困難、問題を心に生まれる感情に振り回されることなく、身体の声を聴き、従うことが私にとっての生き方。
しかし、最初は身体の声よりも心の声の方が大きい。身体に従う、というのは心を捨てる、そんなことかもしれない、と最近思う。だから、どう嫌われようが「心を捨てる」と強い言葉で伝えてみたい。

・半身を捨てれば怖くない。
いつも身体に見つかる新しい動きに従っている。怖い相手との距離を詰める時恐怖が生まれる。衝突することができればその瞬間、足指を使い角度を揃えれば自由を保てる。しかし、距離があると角度が揃えられない。どうしても心がきゅっと縮み動けなくなる。これをどうにかしたいと願った。
願えば叶うらしく、すぐにアイデアがひらめく。右半身を捨てて半分になってみた。守るべきものを捨てたことで覚悟が決まるのか怖さが半減どころか、一気になくなった。そのまままっすぐ相手に近づくことができる。
こんな経験を通して、これはどういうことだ、と探るのが稽古だ。

・私の稽古は心を捨てたものだった。
23年前、身体感覚を探る稽古を始めた。身体だけを観る稽古。正解はない。だからいつも、自分の感覚に従うしかない。そこに頼るものがないから自然と身体に従える。今まで気づかなかったが、これは心に頼らないこと、心に生まれることを捨てることだったようだ。
当然最初はうまくいかない。しかし、なぜか楽しかった。誰とも競わなくなったことが原因だろうか。とにかく、いつも新しいことと出会うようになる。

・成果はゆっくり、でも楽しい。
技としての動きはいつも少しずつ変わるがそれが生活に生きることはなかった。そんなレベルではなかった。それが徐々に身体から得られる感覚に従えるようになるとそれまで理由がわからなかったいろいろな教え、教訓に、なるほど、と思えるようになった。昔からの教えは先人が身体の声を聴き、残してくれたのだ、と思うようになった。
一気に学ばなかったおかげでじわじわと私は私の観念を変えることができた。現代のようにすぐに成果を得られる時代になると余計に学びにくいものかもしれないが、身体からの声は複利的に大きくなる。スタートだけはしておいて欲しい。

・捨てるという力
断捨離は流行りというよりも定着した。執着するのは良くないことを直感的に感じている人は多いのかもしれない。しかし、物は捨てられても身体は捨てられない。しかし、身体感覚でなら身体は手放すことができる。
角度を揃えるというのは動きたいという欲を捨てることで精度が上がる。そして、左右にかわしたい、逃げたいという欲を捨てれば恐怖に負けずに前へと進みことができるのだ。
トレーニングする身体は大きく、強くなる肉体を求めてしまうが、身体感覚は違う。小さくなることだって生かすことができる。

・身体は弱くなる、小さくなる、老いる。
私は戦うために稽古をしていない。この世の森羅万象を知りたくて稽古をしている。まぁ、死ぬまで楽しみたいってことだ。
老いていくというのは肉体が弱くなっていくこと。トレーニングも進化しているので肉体的な老いを遅くすることもできるだろうが、やがて死ぬ。動けなくなる。
その時、指先一つでも動くことができれば、その瞬間を楽しめるだろう、と思わせてくれるのが身体感覚の世界だ。
身体と心は一つ。これも定着している考え方だと思う。その時、100%身体を信頼できていれば心も100%楽しい。この時、生な肉体をみれば老いて動けないダメな身体が多く見つかってしまう。捨てるに捨てられないのが肉体だ。しかし、身体感覚は手放すことができる。指先100%になっていればそこに動きを見つけ、楽しい自分でいられる。
これらは全部予想。しかし、たぶんそうだ、と私の直感は言っている。

・自分だけの観念を作る。
心を捨てれば幸せになれる。そんな言葉を聞いても多くの人はまさかまさか、と拒否をする。ここで議論をしても意味がない。自分の中に納得があればいいのだ。
しかし、非常識なことはたいてい喧嘩になる。喧嘩をすると負けることもある。負けたことで欲しかった観念を手放すのはもったいない。だからこそ、一人稽古なのだ。自分がそうだ、と直感したことをひたすら一人で研究する。時間はどれだけかかってもいい。必ずそれに身体は応えてくれる。
自分が信じているものの真逆を探ってみるのも楽しい。
「心を捨てる」、今日はそれをお勧めしてみた。

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