好きがわからなかった私

「好き」になれば願いは叶う。簡単に言えばこうです。
しかし、頭で「好き」を唱えても、身体に緊張という「嫌い」が現れてしまえばそれがブレーキになります。
身体の声を聞かなくても暮らせるようになり、頭と身体が反発している人も増えてきたように思います。

身体を左右へと開けば、それだけで心地よさが生まれます。頭は身体の張りによって、心配と不安を作れなくなります。
この時、目の前の物や事を「好き」と思いやすくなる。最低でも、「嫌い」ではなくなるのです。

まず自分の身体に心地よさを生む働きを作ればいい。そのスイッチこそが左右への張りです。
張りを持ち、好きの種を生み出せば、余裕を持って想像を動かす事が出来ます。この時、想像を作るのは「右」です。右側を意識し、右側だけを飛ばします。目標を得れば「左」はそれを補い始めます。左は目的を生み出すよりも、すでに決まっている右の元へと行く事自体が心地よいのです。左と右はお互いの役割を認め合い、助け合っているとわかります。

好きの姿勢を知った事で仕組み的には安定しました。しかし、ここにたどり着くのに本当に時間をかけてしまいました。その理由は子供の頃からずっと、「何が好きかわからない」ままだったからです

とにかく、気がついた時には自分が何が好きなのかわからなくなっていました。
もちろん、勉強は嫌い、遊びは好きです。しかし、もっと好きを掘り下げてみた時、本当に好きかと言えばそうではないのです。

食べるのは好き。でも、それは空腹の時だけ。満腹になれば、好きなものでも、食べられません。無理に食べる事はできます。しかし、その途中、どんどん「嫌い」が大きくなります。

ゲームやスポーツ、遊びも全部、こんな感じです。
心の底から好きなものってありませんでした。

まず勝ち負けがあるものがダメです。勝てばうれしく、負ければ悔しい、と単純に決められれば勝つための努力や作業を「好き」と思え、時間を費やせられます。しかし、勝ちを得た時、そこには必ず負ける側がいます。私はその負けている相手をみるのが「嫌い」だったのです。

また、負ければ悔しいか、というとそうではなく、何となくホッとする気持ちがあります。勝てば注目もされ、ちやほやされます。しかし、それが私には面倒なのです。本当にやっかいな性格。しかし、そう思ってしまう、そう感じてしまうのでどうにもなりません。

ずっと、好きがわからないまま過ごしてきました。しかし、幸運にも「身体感覚」という世界を知りました。身体の世界は好き嫌いを超えるものです。好きであっても、嫌いであっても、そこに存在し続けるものです。そして、これは「逃げられないもの」です。

好き嫌いはわかりませんでしたが、それでも、逃げられないものであれば時間を費やす事が出来ます。時間を真剣に費やせば必ず道は拓いていきます。
どんなに好きに溢れていても、嫌いに囲まれていても、そこに身体は存在します。身体を基準に世の中を見てみれば、私の頭が作る好き嫌いよりも強く私に影響を与えてくれている事に気づきます。

武術には「敵」がつきもの、必須です。敵というのは私の命を奪う者。痛みもあれば、苦しみも生みます。こんな状況を好きになるのは大変、ほぼ無理です。
頭でどうそれをありがたい、と念じても、痛みや苦しみによって感情を揺らされ、「嫌い」を生み出します。
言語第一の人は脳みそは勘違いをする、と言います。脳は言葉によってコントロールできる、と。だから、ありがとう、感謝している、と唱えよう、と。

この意見には賛成です。大賛成。しかし、私たちは脳だけではないのです。脳ではなく、身体が主役になる時だってあります。痛みや苦しみを受け、身体が反射的に縮んでしまった時、言葉によって脳を主役に戻すのはどれだけ困難な事か、それを忘れてしまっています。

頭ではなく、身体を主役にする事ができるのが稽古です。
私を苦しめに来る敵。その敵から攻撃を受けて身体が縮んだ時、頭は諦めます。しかし、身体に任せてみれば、まだまだ「やれる事」が見つかります。新しい動き方を得た時、それまで嫌だった事が喜びに変わります。
頭で作る喜びは大きな結果でなくては刺激になりませんが、身体に得る喜びは「さっきよりマシ」という極僅かな変化で得られます。そして、そのたった一度のマシな経験が頭を変えてくれるのです。

「もしかしたら何とかなるかもしれない・・・。」

身体に見つかる新しい動きは光です。真っ暗な闇の中にポッと光る小さな光です。それ自体が私を助けてくれるわけではありません。しかし、その光を見つけただけで心は落ち着きます。可能性はほんの小さなもので十分なのだ、とわかります。

今、身体的に「好き」を見つけて、これまで口にしてきた「身体が好き」という言葉はウソだったな、と思うようになりました(笑)。
「好き」と言いつつ、緊張を身体に残していたからです。どこかに身体に任せる事を出来ていなかった事がわかります。

それでも稽古を続けてこられたのはやはり、「逃げられないもの」だったからです。
この世に「逃げられないもの」がどれだけあるでしょう。日本はもう、自由の国になりました。どこにでも住めるし、どんな仕事も選べます。勉強する事も、しない事も自由です。
心弱くなればつい、逃げてしまうのが人間です。自由を得た状態で逃げを覚えると、永遠に逃げ続ける事になります。終わりなく、永遠に。これ、地獄のよう。

身体はどこに逃げても、ココにあるもの。私という存在、意識、魂が身体に住んでいるのかもしれません。まぁ、いいんです。そのあたりの定義は。
問題は「逃げられないもの」として身体をどうみるか、です。
病気になったら医者に任し、弱くなれば鍛えればいい、なんてレベルではダメなのです。何もないその時にも、身体の中に私はいる。それを自覚した時、この身体の事をもっと探り、何とかしなければ、と必然を得られます。

大好きなものがあるならどんどんそれを求めたらいいんです。しかし、きっと、私のように好き嫌いがよくわからない人もいるはず。情報が溢れ、情報によって思考をコントロールされる時代です。好きでなくても、大勢の人が好きだという事を好きと思わされてしまう事もあるでしょう。ブーム、流行というのは優しい洗脳です。

ブームに乗って、ちょっと考える。本当に今、私は心の底から楽しく、生きているのか?

もし、この時、好きじゃない、とわかればチャンスです。それまで見落としてきた身体を探る大チャンス。何となく生きられる今だからこそ、自覚をして好きと嫌いを探る事が出来ます。逃げられない身体を見つける大チャンスです。時間は限りあるもの。毎日の生活の中でちょっとずつ、逃げられない身体を考える時間を持ちたいものです。

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