日本の文化は両手を使う

30年できなかった事が出来てしまった。その原因は「角度」を揃えたから。どうすればいいのかという答えばかりを探してしまったから角度が悪いだなんて考えもしなかった。
自分がこんな動きをやれていること自体が不思議なのだが、何日かすればそれも当たり前になる。人間は不思議だ(笑)。
余裕が出てきたので理由を改めて考えてみると、一つの仮説が思い浮かんだ。今日は「時代と文化」の話。

・残されてきた答え
世の中にはたくさんの格闘技、武道がある。何十年も前、それらの技は実際に使うために練習、稽古をしてきたはず。しかし、現代は喧嘩が少なくなった。平和になった。いや、戦う世界が肉体ではなく、精神的な世界へと移ったのかもしれない。平和になんてなっていない(笑)。

しかし、残されてきた技術は形を変えない。ルールに守られた中で技術を残している。先人はちゃんと技術が後世に残るように言葉として残している。ただ、その先人たちも無意識のうちに身に着けてしまったものは残せなかったようだ。

その一つが「角度」。本当に大切。

・両手を使う文化
子供のころから躾けられてきた礼儀作法を見直すと「両手」を使うことが多いのがわかる。
茶碗を持ち、橋を使う。お茶を飲む際の添える手。襖だって両手を使う。日本刀も両手で持ち扱う。二つある手を無駄にしない文化があるように思う。

これらの作法が作られたのは昔々だろう。その頃、今のように便利な機械はなにもなかったはず。
重いものを持つとき、頼りになるのはこの身体一つだ。その時、自然と角度が揃う。身体をわざと捩じって重いものを持ってみたらいい。そんな持ち方で仕事ができるはずがない。しかし、現代なら身体を捩じろうが持ち上げるのは機械の仕事だ。椅子に座り操作をするだけだから、捩じっていても仕事にはなる。

しかし、身体には無理が生まれ壊れていく。それでも、「みんな」そうなのだから捩じることが問題になることはない。これは大問題だ。

・時代は当たり前を変える。
日本という国は変わっているのだそうだ。稽古を続けてきてなんとなくそれはわかる。欧米人、いや、お隣の中国、韓国の人たちと比べても肉体的な身体が弱いと思う。骨格や筋肉、特に体幹を維持する力が弱い。ただ、その弱さを生かすように「両手」を使う文化を育ててきた、私はそう思っている。

しかし、明治維新に太平洋戦争、そしてIT技術。大きなグローバルな流れによって環境は変わった。何百年も不便を活かすように生きてきたこの国は一気に便利へと変わってしまった。

環境が変わるのはいい。問題は無意識のうちに身に着けていたものが無くなってしまう事だ。先人たちの教えは残されてきている。しかし、それを行うための身体的土台が今、ない。
棒切れをヒョイと取り上げるような動きだって、ルールの中で競い合っているだけだと難しいと認識してしまう。しかもその技はもう、必要としなくなっているのだから研究もされない。金メダルのための練習、研究がどうしたって増える。もったいない事だ。

・ハンバーガ・サンドイッチ VS お茶
海外の人たちはトランプをしながら食事がしたいからサンドイッチを発明したりする。そういう文化だ。片手をそれぞれ別の事に使う。体幹がしっかりとしているからこそできる技。しかし、これは日本人には合わない。身体は悲鳴を上げる。
お茶を飲むだけなのにそこに全身全霊を向けるために家まで作った。そして、その後の所作も厳しく決めた。そこに自由はほとんどない。その窮屈さを現代でも楽しんでいる人が山ほどいる。不自由を楽しめるのが日本人だ。

不自由がある時、両手はおそらく繋がっている。その繋がりを活かせば残されてきたたくさんの教えがまた輝きだすはずだ。
棒切れを取った動き。そこに技はない。ただつかみ、捩じり取っただけ。やってみるとわかるが簡単には取れない。綱引きになってしまう。しかし、この時、角度だけをしっかりと決める。すると、両手が自由になり、相手のスキをつき、奪い取る事ができる。もし、角度を揃え、「棒を奪い取る技」を使えばもっと楽に、効率的に取れるだろう。

今、もしできない技があるのならその理由は角度が揃っていないからだと思う。角度が調整できると分かれば一気に、たくさんの技へと応用ができる。私は遠回りをしてきたが仕方がない。時代が変わっていることに気づいていなかったのだから。

・日常生活で変えていく。
子供の頃を思い出して、周りの大人たちから言われた事を試してみたらいい。それだけで相当、角度は揃う。
肘をついてご飯は食べないし、ゴロゴロとして本も読まない。角度を忘れさせた一番の原因はテレビだと思っている。ひょうきん族や全員集合、魅力的な番組はご飯に向き合わなくてはいけないのに、ついつい、見てしまう。この時、角度はぐっちゃぐちゃになっている。

そして世の中にスマホが生まれた。何かをしながら何かができる。効率、生産性は上がるのかもしれない。しかしそれによって身体には無理が出るし、そもそも角度を揃える感性からどんどん離れていく。角度がずれてしまえば周りは敵だらけになる。そんな生き方したくない。

日常生活で学んでいく方法はいつでも、どこでも、十分な時間が取れる。死ぬまでずっと、角度とはなにか、と追い求めてもいい。それぐらい大事。
多くの人はさらに人任せ、機械任せ、コンピューター任せで生きていく。角度を合わせる力を失い続ける。お金を出しても角度は揃わない。人には頼れないのだ。ぜひ、次の食事から茶碗を持ち、両手を使い食べてほしい。きっと、良いことが起こる。


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