「運」を伝える危うさ

運という場所がある。これは確信した事。迷いはないし、実際に技として使えるようになってきた。

そして、それを共有してもらうためのいくつかの方法も見つかった。
ただ触れているだけに見えるその方法は、身体同士が反応をし、こちらが見ている運の場所を受け取ってくれる。

受け取った運の場所の感覚は余韻としてしばらく残る。これは「鱗」や「小魚の群れ」を伝えた時と似ている。身体はそういうものなのだろう。

運に任せて身体を動かした時、一様に軽さを感じられるみたい。まぁ、それは期待通りだし、術理的には当然なことだが、筋肉や骨の力強さに慣れた現代人には驚きとして受け止められる。

もちろん、驚いてもらうのは嬉しい事だ。ただ、それを「私がすごい」と受け取ってしまうと間違える。すごいのは「身体」だ。運という場所を生かすことのできる身体を持っていること自体がすごいのだ。

精神世界と身体感覚

身体感覚の稽古は精神世界と相性がいい。相性が良すぎて、迷いすぎるぐらい(笑)。
それほど真面目に求めた訳でもないのに精神世界の知識がいくつか増えた。それは稽古で縁ができる人たちからちらほらと聞いてきたものが積み重なったのだが、普通に街の本屋さんに並んでいるし、何万部も売れる本があったりもするのだから多くの人が持っているものだと思う。

稽古を始める際、この精神世界の知識は役に立つ。生じっか大きな体、大きな筋肉、強い効果を発揮する技があるとどうしてもそこに頼ってしまう。私が一番苦労したのは、いや、今でもそうなのだけど、元々持っていた筋肉の力、こうすればいい、という覚えてしまった技を捨てることだった。

精神世界に興味を持つ人の傾向として、肉体的には強くない、というのがあるのではないか。それは体力的なことだったり、病気だったり、努力では如何ともできない境遇だったり。その「弱さ」を「強み」に変える事ができるのが武術を下地とした身体感覚の稽古ではないかと思う。

私の稽古

武術を下地に、と言ってみたけれど、私の稽古を見て「武」を連想、想像する人は稀だ。
ただ立ち、ただ手を上げたり、ただ歩いてみたりしてばかり。体操教室の方がよっぽど動くし、汗もかく(笑)。

また参加を続けてくれる人たちも積極的に「戦う」という技を求めてはいないし、女性や高齢者も多く、おおよそ「武」には見えないと思う。

しかし、長く一緒に稽古、研究を続けてくれる仲間たちが遠慮なくこちらの動きを抑えてくれる事で見つかってきた術理。体が大きく、さらに警戒をされた上で抑えられても、自由に動く事ができる力を持っている。

その術理を基にした動きに派手さはない。小さな動きのまま、理想を言えば、問題に直面したとしても、何もせずにそれを通り過ぎたい、という私の好みがあるからかもしれない。

遠慮をなくすのが難しい

稽古の難しさはここにある。こちらは質問、疑問に対して全て答える準備をしている。ただ、質問をする側が遠慮してしまうのだ。

人間は潜在的に大きな力を持っている。そんな事を聞いたことがある人は多いと思う。そしてその力は何かを自発的にする時よりも、がむしゃらに抵抗をしようとした時に発揮されたりする。

私の稽古に型はない。抑える側に制約はない。想像できるだけの抵抗をしてくれたらいいのだけど、きっと、私にそれを受け止めるだけの力がないように思えるのだろう。せっかく教えてくれている先生に恥をかかせてはいけない、そんな思いが無意識に出て、ありきたりな抵抗で終わったりしてしまう。

これが邪魔なのだ。

無意識にセーブされた力が、心の底からの信頼を生む事の邪魔をする。自分がこれだけの力で抑えているにも関わらず、それを乗り越え、動かれてしまった、という経験があれば、その元となる術理に対して欲も生まれてくる。欲を持って手に入れようとした場合と、なんとなく聞いて、なんとなく試して身につけようとする場合では当然、結果が違ってくる。

なんとか、この無意識の遠慮を解いてもらおうとこちらもあれこれ模索をするが、今のところ時間に助けてもらう仕方ない。
私はきっと、人との間に無意識の壁を作っている。人とのコミュニケーションが苦手なのだ(笑)。こちらから頼む事でもない気がするが、何とか少し我慢をして、私の壁を破り、ぜひ遠慮なく、抑える側を楽しんで欲しいと思う。私も頑張りますので(笑)。


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