角度はあらゆるところに存在する

このnoteを始めたきっかけはどうしても伝えたいものが見つかったからだ。その伝えたいこととは「角度」。これまで何度も言葉にして来たから、これを読んでくれる人にはそろそろクドイと思われているかもしれない(笑)。
しかし、きっとまだ、勘違いがある。角度は「あらゆる場面」に存在していて、それがずれることによって捻りを生み、トラブル、困難の元になっている。
角度を揃えることでこれまでどうしていいのかわからなかった事が動き出した。いくつか例をあげて言葉にしてみたい。

・武器を奪い取る
これが何といっても、私にとって革命的な出来事だった。武器を持たれてはそれまでの稽古はなにも役に立たない、そう思い込んでしまった。この呪いは強かった(笑)。
しかし、武器に対してただ恐れなくてもいい、事がわかり心が晴れた。勝つか負けるか、生きるか死ぬかはわからない。そもそも、そんな状況に出くわすとも思っていない。しかし、もし襲われたらと思うと心が縮む。それが呪いだ。
しかし、今はその呪いが完全に溶けた。溶けたことでむしろ、晴れ晴れとして、楽しい自分にしてくれたことを感謝すらできる。とにかくこの技で角度の重要さを確認した。

・体術も角度
武器が怖かったのは私の武術の根っこが体術だったからかもしれない。武器に対して過剰に反応してしまった。その武器に対して角度で立ち向かうことができる、とわかればそれを体術に使いたくなるのは自然だ。早速試す。
これまでも次々と困る状況はなくなっていったが、あらためて角度を揃えてから動いてみると、困る状況を作っていたのは自分自身なのだ、とわかる。武器の時と同じだ。
なぜ、角度に気づけなかったのか、と考えてみると、「手が働きすぎ」なのが最大の理由だと思う。掴まれた瞬間、身を守り、崩されないようにする。そして手を動かしなんとかする。確かにその動きは相撲取りと稽古をしても驚かれるようになったが、角度を揃えておきさえすればもっと簡単に普通に動きを続けられる。この遠回りは私には必要だったが、わざわざそれを皆がする必要はない。

・なんと寝技にまで
稽古はいつも実験だ。常に自分の「嫌なこと」を試す。角度を揃えるのは「足指」の仕事。地面についていてこそ角度は揃えられる、と思っていた。
しかし、どうやら、寝ていても同じらしい。寝ころび、襲われてみる。その時、足指は浮いている。しかし、その状態でも足指に意識を置きピアノの鍵盤をタララララーンと横にならすようにすると、体幹の角度は変わる。
この時にも相手としっかりと角度を揃えることで身体の緊張は生まれない。両腕を自由に動かし続けることが可能だ。

・角度はあらゆるところに存在する
考えてみれば何かと向き合う角度なのだから当たり前といえば当たり前だ。しかし、まさかこんな働きを持っていたとは夢にも思わなかった。考えもしないから試しもしない。今、とにかく試し続けている。
冷水を頭から浴びてみた。その瞬間身体はぎゅっと縮まる。しかし、この時だって角度はある。冷たい水と自分だ。二回目、三回目になれば桶に張られた冷水を見ただけで未来の自分を想像し、緊張してしまう。この緊張を角度を使ってとる。
これは「慣れ」とは違うもの。まぁ、慣れることによってそれが当たり前となり、緊張しないのは角度が自然に揃ったからといえるが、最初から狙って揃えるものだから慣れの才能なんかは必要なくなる。誰でもできる。

目に見えない心の中に生まれるものに対して自分がどんな角度で向き合っているのか、とわかるとその瞬間、今自分にできることが次々に浮かんでくる。稽古で見つけた角度を揃えた時の自由は両手が縛られることなく動かせる、というものだったが、これはそのまま、「自分のやりたいこと、やれること」を現しているのかもしれない。

・整理整頓は苦手だった
昔から片付けができない。どれだけそこにメリットを強調させられてもダメだった。もし、普段から整理整頓が得意な人ならいつも両手は自由でいられるのかもしれない。しかし、私にその才能はなかった。
それでも身体は助けてくれる。才能はなくても身体はある。その身体がもう死んでしまう、と極限状態な時、角度の大切さを教えてくれる。たとえ笑いながらただの棒切れを振り回すようなぬるい稽古であっても、心がそれを極限に感じれば身体は必ず反応を返す。稽古は身体にスイッチをいれる方法なのかもしれない。
世の中サービス合戦になり、身体はのんびりと休み続けられるようになった。こんな世の中で夢へと向かえるのはもともと強い心を持っている人だけだ。もし、その強い心を持っていない、と自覚してしまったらぜひ、稽古を始めてほしい。強い心なんかなくても凄い身体があることがわかるはずだ。

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