川崎、東山稽古に向けて

私が伝えているのは「一人稽古」だ。
自分自身に向き合った時、いつでもそれが稽古になる。この方法の何が良いかと言えば「時間」が助けてくれる事。
時間は積み重なる。時間に助けてもらえるようになれば、「必ず」変わっていく。望みの場所へと必ずたどり着ける。

探している間に死んでしまう

現代人は忙しい。
皆やる事がいっぱいだ。新しく何かを始めようと思っても、行動へと移せない。
武術も似ている。体験しては見ても、続かない。メリットはわかるし、それを求めていても、それを獲得するまでの時間が待てない。
そして頭はもっといい方法、簡単な方法でたどり着けるのではないか、とひらめき、新しいものを探し出す。探せば見つかる可能性は上がるが、探している間に死んでしまうのが人間だ。誰もがゴールへとたどり着けるわけじゃない。

日常生活が稽古になる

一人稽古を身につければ時間が無限に湧いてくる。いつでも、どこにいても、その気になったら稽古が出来る。稽古をし、研究し、ひらめき、理解し、自分を変えられる。

何かを身につけるのに「一万時間」かかる、と言われたりしている。逆に、一万時間をかけたら一流になる、と。
これが正しいかどうかはわからない。しかし、時間をかけて、何の変化も現れない事はあり得ない。一万時間では一流になれないかもしれないが、二万時間、三万時間ならどうだろう?一つのテーマに数万時間を費やして成果を出せない方が難しい、そう思わないだろうか。

一人稽古は日常生活すべてが研究材料。どんなテーマを扱うのでも、その「土台」となるのは「私」だ。そして、その私の中の「身体」を掘り下げていく。

魂や精神、心に興味がある人もいるかもしれない。しかし、その魂や精神も全て、身体からアプローチをする。「心身一如」という教えがあるが、身体が動くようになれば自然と心も自由になっていく。
生きている私たち人間の「土台」とは身体の事だ。

一万時間

ちょっと一万時間について考えてみたい。
毎日10時間何に向き合うとする。
10日で百時間。
100日なら千時間
1000日で1万時間だ。

仕事なら毎日毎日積み重ねられる。嫌いな仕事であっても、慣れてくる。3年も働いたならもう、考えなくても動ける仕事はいくつもあるだろう。

しかし、新しく何かを学ぶ時、3年(しかも一日10時間)費やせるかどうか、と考えると、もうここで挫折をしてしまう人もいるだろう。おそらく「無理」と思う人の方が多い。

しかし、日常生活なら、いつの間にか3年たってしまう。一人稽古を試してみれば、いつの間にか身体の感度は上がってしまう。そして、それに必要なものは何もいらない。すでに得ている身体そのものに注目をすればいいだけ。
なんの才能も、、運も、お金も要らない。誰でも、望めば手に入る。それが一人稽古。

私の稽古量

私は努力が出来ない。目標を持って行動し始めても、続かない。若い頃はもう少し頑張れたが、もう無理(笑)。
精神の弱さもあるが、努力をして得る以外に、「運」の事を知ってしまったからだ。

人には持って生まれたものがある。
努力は一つの事に集中した時、それを変化させる力。筋肉を変えたいのならそれでもいい。筋トレは努力が似合う。
しかし骨は努力をしても大きくはならない。皮膚だってそうだ。自力で肌に模様は出来ないし、角も生えない。
更に私たちの外には「運」がある。運は流れとなって降りてくる。人の頭が考える以上の量で私を変えてくる。

25年稽古をしてきて、もう、努力だけには頼る気は全くなくなった(笑)。
今はたんたんと毎日を過ごすだけ。それが時間を積み重ね、ある時、ひらめきをくれる。稽古をしていたら自然と、ひらめいてしまうようになった。

ひらめきを得るのは簡単だ。
実はだれの頭にはいつも、ひらめきは起こっている。しかし、たいていの場合はスルー。気づかないだけ。
頭という身体にはひらめきが似合う、そんな感じだ。頭の声が聞こえないのなら、もっと大きな胴体の声を聞けばいい。
日常生活から身体の負担は減ったが、あえて、大きな身体がどうなっているかに耳を澄ませてみれば、自然とそこに気づきがたまり、ひらめきへと変わる。

1日は24時間。
私はその全てを稽古にしている、そう考えている。ただ、傍から見た時、とてもそんな風には見えないと思う。しかし、身体をテーマにしてみれば、あらゆる活動が経験値となり、身体に刺激を与えて、変化をくれている。
最初、変化には気づけない。しかし、「疲れ」として変化を感じ取れるようになる。

上手く身体を動かせていないから、疲れるのだ。この時、楽しく過ごしてしまうと疲れない(笑)。楽しさは身体を消す。身体を気にしないで済むようになる。精神は楽しさを求めるのもうなづける。

ただ、私たちは「老い」る。
疲れは日々、年々、増える。出来ていた事が出来なくなる。そんな事が増える。しかし、これがチャンスなのだ。いつの間にか溜まった身体の声、それが疲れだ。

大切なので繰り返す。
日常生活がすべて稽古。どんな事をしていても、それが稽古になる。コーヒーカップを持つ手にだって感覚はある。上手く持てればカップは軽い。指先にかかる重さがあり、全身を揺らす影響がある事がわかる。
そして、その日の気分でもカップの影響が違う事もわかる。こんな事を気にするのが私の稽古。

一日は24時間。寝ている時にだって稽古だ。朝起きて身体が痛い事がある。それは寝ている間に身体が無理をしたのかもしれないし、リフレッシュできなかったからかもしれない。時間を重ねて、痛み、疲れとして認識できた「嬉しい」事とも言える(笑)。

24時間の稽古が365日続けば8760時間。ぐっと1万時間に近づく。しかし、その頃になればもう1万時間の法則に頼らなくてもいい。勝手に時間は積み重なる。この先、10年、20年、こんな稽古を重ねたならさらに感度は良くなるのは決まっている。いつも、機嫌よく過ごすための装置が磨かれる。知られていないのが本当にもったいない!

手掛かりはある

一人稽古と日常生活、時間との関係。漠然とした言葉にどうしたらいいのか、わからないと思う。
しかし、どんなに迷っても、「身体」はここにある。その身体こそ手掛かりだ。

ここに身体がある事を自覚し、意識を拡げて行く。
意識を拡げるっていうのも怪しい言葉(笑)。
しかし、身体的にはシンプルだ。

上下、左右、前後、内外、こんな話。

今、自分の意識が上下や左右、前後や内外に揺れている、動いているのを観察できたらいい。
シンプルな方向への移動をただ整えて行く事、まさにそれが「土台」に必要な事。

金曜日の東山の稽古、日曜日の川崎の稽古の前までに「上下、左右、前後、内外」についてちょっと書き出してみます。一人稽古の手掛かりになりますように。

【ご連絡】

今月の東山の稽古は定員となり、締め切りになりました。来月も「第4金曜日午前中」を予定しています。

川崎稽古はもう数名大丈夫。
稽古日時:2020/11/29(日)14:00~18:00
http://www.karadalab.com/kanto


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