身体に従い、依存する

言葉はあえて悪くしてみる事がある。

身体は素晴らしい、可能性の塊だ、と言えばまぁ、そうだそうだと同意をしてくれる人もいる。
しかし、身体に依存をする、と言った時、「依存」という強い言葉に嫌悪感が出る人もいると思う。

時々、あえてこんな言葉を使って考えてみる。
依存よりもさらに、「逃げ出せないもの」と考えたらどうだろう?と。

現代ってなんでも選べる時代。だからこそ、こうしなくてはいけない、というものを持っていない。
よっぽど未来を決められているなら別だが、なんとなく生きられるのが今の日本だ。

生きている間は身体からは逃げられない。当たり前すぎる事だが、ネットが出てきて少し変わった。
男にもなれるし、女にもなれる。年齢、職業だって自由自在。経歴、職歴、言ったもの勝ちだ。
害がなければ「なりきる」のは自由で楽しめばいい。

しかし、ネットの中の仮想の自分が強くなりすぎると身体から逃げられない、現実の自分とのギャップが大きくなる。
若い頃ならまぁひきこもるのもいいだろうが、病気や老いでだんだんと身体から逃げられなくなるのも考えたらわかるだろう。

逃げ出せない、とあきらめればそこを観察ができる。そして、案外と強くたくましい事がわかると思う。強いものになら依存もできる。

私は依存をしています、とはなかなか言い出せないかもしれないが、それぐらいの覚悟を持つと、どんどんとまたいいところが見えてくる。

身体への信頼を重ねていくと年齢を重ねるたびに楽しくなれる。
多くの人は目に見える価値あるものを求める。身体感覚は目に見えないもの。若いうちにはその価値がわからないかもしれない。私はたまたまその価値を感じられる運があった。だからこそ、伝えたい。

昔の人たちは生きているだけで自然と身体に従うことを学べた。不便だったから、活かさなければ生きていけなかったと思う。
現代は便利すぎる。この身体がだめなら機械に任すし、お金を払い誰かにやってもらえる時代。身体の凄さを感じる機会が少なくなった。

すべきことが少なくなったけれども、身体はちゃんと、自分のすぐそばにある。「観察」をすることを忘れず、習慣にすれば今のまま、たくさんの幸せを見つける感性は育つはず。


常識とは違うが、だからこそ、やりがいもあると思う。

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