川崎・つくば、関東稽古に向けて その4

土曜日が川崎稽古。もう少し書いておくつもりだったが、今回の記事でどうやら最後。

イメージとは実感を伴うもの、そんな事を伝えられたらうれしい。
これまで「身体感覚」という言葉を使い、身体の不思議さを伝えてきた。私が言葉にしている事は身体を持っているなら当たり前の事、そんな意識でいるが、なかなかそれは理解されない。自分とはかけ離れたところにある技術、そう思われてしまう。

誰の中にもある力なのだが、それを認めないうちには働いてくれない。結果として、私の動きが有効になる。
昔などは流派の秘伝は教えない、という考えがあった。「秘密」だった。私は甲野先生から見つけた事はすべて伝えて、その上で止めてもらい、さらに先に行く、という稽古法を教わったので隠すつもりは全くない。むしろ、どうしたら伝わるのか、といつも考えているが、教える才能のなさが、伝わらない結果を生んでしまっている(笑)。

ただ、それぞれの身体に可能性を確信してもらった人とは非常にいい稽古が出来る。
始めは単純な筋肉の力みから始まった稽古。それがやがて全身に流れを生んだりして滑らかになった。目には見えない流れを意識する、そのあたりから「身体感覚」という言葉が腑に落ちて、自分が今、感じている事を意識するようになった。

それから20年以上過ぎて今、「イメージ」という言葉を使う覚悟が出来た。これまで私は「イメージが出来ない人間」というコンプレックスがあった。
技を習う時、いいイメージで、などは何度言われたかわからない。自信をもって、というのもそう。しかし、自信というイメージを持つための材料がなかった。

身体感覚が磨かれるにつれ、いつの間にか心の世界も変わってきた。やはり、心と身体は一つなのだろう。
3月末から「弱さ」を求めるようになり、肉体に頼る動きを手放し始めて、より心は身近になった。ただ、心に頼りすぎると妄想化していざという時役立たない。

「出来ねば無意味」という言葉を教わり、イメージ重視で技を作った時にも、そこに確かに「ある」という事を忘れないように稽古を続けている。結果的に、身体はイメージがそこにあるかどうか、という確かめる役目を負うようになっている気がする。

今、私は「魔法」を意識して動いている(笑)。
いい歳してそんな事を、と自分でも思うのだが、そうでもしなければ、つい、肉体に頼ってしまうからだ。
ここにないものもイメージなら生み出せる。想像の力というのはそういうもの。発明家などは、今ここにないもの、ないサービスを作り出すが、彼らの頭には先に、イメージとしては出来上がっているはず。頭、脳にはそんな力が当たり前に備わっている。

水のイメージ

最初に生まれた「ない」ものは水。手から水が飛び出すイメージではなく、今、自分が「水中」にいるかのように動いてみる、というもの。
当たり前だが、私たちの周りにあるのは空気だ。しかし、身体に浮きがかかり始め、だんだんと意識が変わり始めた。

浮きを作り出すきっかけになったのは「踵」、踵を意識すれば自然と浮きは生まれてくる。しばらく踵に頼り、浮きを維持していたのだが、その浮きが当たり前になってきた頃、「沈み」も感じ始め、浮きと沈みの感覚がふと、水の中にいる感覚を与えてくれた。

これがまた、有効だったのだが、まだこの頃は魔法などとは考えもしなかった(笑)。しかし、「水の中」のイメージによって全身が現実の刺激から離れ、イメージの世界へと踏み入った事で想像はさらに膨らんでいく。

雷のイメージ

飽きたら次、私の稽古はいつもそう。
雷のイメージを持つようになったきっかけの技はこのnoteにも書いた、指先で棒をとり上げる技。体幹や腕、手では出来なかった細やかな動きを20本の指が別々に動く事で軽く取り上げられるようになった。

指先が自由に動いている時、そこに身体の持つ塊感はない。指先は何かにつられるように動き続ける。それが10本、20本、居つくことなく、常に「動いている」。
この「動いている感」が「電気的」な感覚を与えてくれた。

手指が複雑に動く事で、それを相手にも伝えられる事が分かってきたのだ。

古武術の世界を知り、打撃にもいろいろある、というのを知った。それまでは足を踏ん張り、下半身、背中の大きな筋肉の力を使い、大きな力で相手を吹っ飛ばす、それしか頭にはなかった。
もちろん、漫画の中には触れただけで相手を飛ばすシーンが出てくるが、現実に見た事も、体験したこともないのだから、追う事は出来なかった。

しかし、色々ある、とわかってからは見つけた術理を工夫して新しい打撃法を探ってきた。
そして今回新しく見つかった打撃法が「雷」。電気が体表面を走るようにして相手に「触れる」という事。

この時意識をするのは電気の性質。電気は回路と回路を結び、エネルギーが伝わる。そこに塊はなく、波としてのエネルギー状態で伝わる。
わかっていても、肉体は塊、エネルギーだけを通す、だなんてどうやったらいいのか。
それがたまたま動き出した指先のおかげで「エネルギー感」を維持したまま相手に触れられるようになってきた。

この時、頭には私の身体にある電気の力を想像している。まぁ、静電気など、確かに存在はしているのだから、純粋にイメージとは言わないが、暴力を伴う場面で使えるほど意識している人はほとんどいないだろう。
身体を流れる電気のエネルギーが相手に触れた瞬間、回路がつながり、体表面を流れ、相手の姿勢を崩す。あとはほんの少し、重さを相手に渡せば、自然と相手の身体は飛んでいく。

言葉にすればこれだけだが、書いていても胡散臭い(笑)。
しかし、自分が疑ってしまえば当然、生まれてこない。頭は疑うかもしれないが、この時こそ、身体が働きだす。動き続ける指先を手掛かりに、そこに「電気的」な働きを忘れないようにする。指を働かせた身体に、「あるかどうか」を問うてみれば、ちゃんと返してくれるはず。

火のイメージ

水、雷、と来て私の頭は柔らかくなってきた。ただ、一人稽古でならいいのだが、これを言葉にして伝えようとする時、頭が止まる。そのブレーキをかけようとする頭を身体が振り切る(笑)。身体に感じてしまった以上、これは伝えなくてはならない。

火も身近な存在。メラメラと燃える火の働きを誰もが知っている。
特徴的なのは熱さ。燃えている塊を素手で握れる人間なんていない。ならば、もし、この手がメラメラと燃えていると「イメージ」出来たらどうだろう、そんなアイデアで稽古は始まった。

ただ、漠然と燃えている、というイメージではうまくいかなかった。まずは極々小さな火を作り出してみる。身体が疑わないように、イメージが維持されるレベルはどこだろう、と探ってみた。

もともと指先には電気の働きは見つけている。電気もエネルギ、ちょっとしたことで電気は発火へとつながる。
爪の先に火をともすように指先を動かしてみると、少しだけ温かい。小さな火を作る事はこれまでの流れのおかげで出来そうだ、と感じた。

その小さな火が腕にどうすればいきわたるか。炎を作る手助けをしてくれる油は使えない。むしろ、汗は水、火を消してしまう。私が出来るイメージはほんの小さなものだけ。
その「小さな」というところを手掛かりにしてみるとアイデアが浮かぶ。身体を小さく見ていけばこの皮膚だって、小さな細胞で出来ている事を私は知っている。以前、「鱗」という術理を見つけたが、それも手掛かりになった。腕全体を大きく見るのではなく、小さな鱗が集まっているように見ていく。
すると爪の先程度しかなかった炎が徐々に大きく、腕へと移っていく。

もちろん、これは想像。妄想と言っていい。しかし、この妄想を人の心は写し、持って行ってしまう。
炎に焼かれて熱くなった腕で相手に触れる。この時、変化は相手にではなく、私に生まれる。

この熱い腕で触れたら相手がやけどをしてしまうなぁ、と心配が生まれてくるのだ。これが身体の声を聴いて、そこに確かに「ある」かどうかのバロメーター。
何もなければ心配などする必要はない。しかし、熱く燃えているなら、そこから生まれる影響を心配するはずだ。その心配は心に生まれたものだが、その心の動きが微妙な身体の動きへと変わるのだろう。私の身体と相手の身体が感応しあう、というのはこれまでの稽古で知っている事。直接心同士が反応しあっている可能性はあるが、身体が間に入る事で、より確信をもって想像を続けられるようになる。

土のイメージ

どうにかして言葉に、と思い、イメージしている事を身体と共に言葉にしているが、ここまでですでに3500文字(笑)。
読んで理解しよう、と思うとなれば大変だが、これらも、実際に手を合わせてみれば、意外に伝わる事が分かってきた。

とにかくまずは「否定」から入ってほしい。私がどれだけイメージで、と口にしても、そんな馬鹿な事あるはずない、と自分の持つ現実から生まれるイメージを大切にして止めてみて欲しい。
そのうえで生まれる変化、特にこれまで経験のしたことのない崩れ方などを観察してみると、何かがあるな、という気がしてくる。

水、雷、炎、これらはエネルギー的な要素が強いもの。塊感はない。
動き続ける、という意味では役に立つが、時々は相手に重く、大きな力でぶつかりたいときもある。
その時に役立つのが「土」のイメージ。

土はどこにでもある。海の上だって、杭を打てば下には地面が見つかる。
その土はイメージを作る原材料になるらしい。

地面からモコモコと人形が生まれてくるイメージは持てるだろうか。いわゆるゴーレム的なもの。
大きく、固い、頑丈な存在になる。

これまで「影」として自分とは違うものを作った事はあった。これも怪しい術理と言えばそうなのだが、当時はまだぎりぎり、身体感覚から取り出したものだった。
しかし、土人形となるとそうはいかない(笑)。空想だけでは固い土人形は作れないが、すでに豊富にある地面と組み合わせてみれば、自分とは違う存在としてもう一人、二人とイメージをする事が出来る。

もう、こうなると真面目には稽古できない(笑)。厳かな雰囲気の中で土をイメージします、だなんてとんでもない。まず、自分自身がとにかく疑っている。しかし、その疑いがヒョイと破れてしまうようにこれまで経験したことのない動きになって表れてしまう。

敵を欺くには味方から、というが自分自身が疑いを持っても、より強く地面が働いてくれるだろう。地面を意識してしまえば自然と、そこから頑丈さ、強さを持ってしまう。ある意味、こんな強烈なイメージはない。

戸惑いと恥ずかしさの中での稽古

とにかく、こんな事を言葉にするだなんて、と自分でも不思議で仕方がない。
しかし、イメージをして身体を作り、動いているのは確か。そして、何人かに伝えてみれば確かに私もそれを感じてしまう。何かあるのは間違いない。

もともと私の稽古は研究。肉体だけにこだわっているわけではない。むしろ、身体感覚という感じるものを何とか言葉にして再現性を高めている。

便利な世の中になって身体の働きを多くの人が失った。しかし、もしかしたら、想像性も失っているのかもしれない。
戦争が終わった直後、何もなくなった日本においては、未来を想像し、人々は生きた。しかし、豊かになり、便利さが先に先にと道を用意してくれるようになり、あえて、それ以上の未来を描く必要がなくなってしまった。

私自身、夢を持たないまま大人になった側なので、夢に対してはあこがれとコンプレックスがある。

自分にはイメージ力がない、という思い込みを持ってしまっていたが、違う。誰もが常に何かをイメージしているのだ。ただ、そのイメージしている部分は無意識と呼ばれたりしてなかなか動かす事が出来ない。

今回伝えるのは自分が持つイメージ力の強さ。そして、それを鍛えるのではなく、すでに持っている強さを自覚してもらえたら、と思っている。
うまく、基本を作って伝えて欲しいと思う人もいるだろうが、それは無理(笑)。とにかく手探りで進めてきたものをそのまま伝えてみたい。
そして、集まった人の中で自然と生まれる何かにまたヒントをもらって先へと進められたらいいなぁ、と思っている。

まだまだ書き出せばキリがないほど、頭にはイメージについてのアイデアが広がっている。言葉には出来なくても、動きになっているものもある。
当日、とにかく、遠慮抜きで一緒にイメージの世界を攻略出来たらうれしいです。

【稽古予定】参加受付中
7/17(土)川崎稽古会
8/21(土)つくば稽古会

7/16(金) 名古屋熱田区
7/21(水) 岐阜大垣 ←再開
7/23(金) 名古屋東山
7/24(土) 浜松 ←7月はこの日だけです。
7/25(日) 名古屋緑区

詳細はウェブサイトで。
カラダラボ ウェブサイト

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?