想像はいつも起っている。

久しぶりのノートになったが、やはり、言葉足らずであっても軌跡は残しておかないとな、と反省。
日々、リアルなノートにルールなく書きなぐっているので自分用には残っているものの、人に伝えるための言葉を残すという目的がなければアイデアは散らかりっぱなしになってしまう。

この数ヶ月の間に興味は「想像力」へと移った。想像する力は人気だ。努力なしにイメージだけで現実が動けばどれだけの人が楽になるだろう。求める人が多いのは当然。私ももう何十年も前にそんなイメージする力の事を知り、求めた。

ただ、求めては見たものの、なかなかそこに実感はなく、確信が持てずにいた。
それでも、10年、20年というスパンで人生を振り返ると、思い願った通りになっている事ばかりで驚かされる。やはり、本当だったのだ、と。

しかし、そうは言っても「今すぐ」必要な願いだってあるだろう。人と人とがぶつかる武術の場面はまさにそれだ。
どんなに一年後の未来がわかっても、今痛い、今怖いのが戦い。その戦いに意味があれば心は満足をするかもしれないが、武術の前提には何もない。ただ向こうの気分によって私が襲われる、という理不尽がある。この時、いくら未来に幸せが約束されていても心は死ぬ。未来にたどり着く前に心か体、どちらかが死んでしまうかもしれない。こんな事をずっと考え続けてきた。

求め続けると必ず答えを得る。それも稽古によって確かめた事。すぐには答えが出ない。しかし、必ず答えを得る。そして、その答えが徐々に正確さを増していく。イメージについての認識も変わってきた。

先週、思いがけないところからヒントを得た。「呼吸」について改めて考える機会を得たのだが、それがきっかけになり、体の外にある世界を意識する事ができた。
そこは空気のない世界。空気がないから呼吸の心配がない。呼吸をしなくてはいけない、というのが心を縛っていたのかもしれない。その体の外の世界に興味を持っていると想像がどんどんと大きくなっていくのがわかる。

想像する事によって自分が大きくなる実感を得たのだが、その受け皿が肉体。この肉体が曲がっていれば受け取った想像力自体に潰されてしまう。無意識に作ってしまう姿勢が、受け止められる想像の量を決めてしまうのだと考えた。

この時、姿勢をまず真っ直ぐに整える。目の前にピンチを見つければ見つけるほど真っ直ぐに立つぞ!という気持ちは大きくなる。覚悟という言葉に近いのかもしれない。
真っ直ぐに立てば、上から肉体に力が落ちてくる感覚が得られる。そして、どんどん、身体を膨らませていく。
この瞬間に筋肉や骨が変わっているとは考えにくい。膨れ上がっていく感覚は肉体ではなく、身体に現れているのだと思う。

私という存在が身体を通して大きくなると、それまで困っていた相手が小さく見える。観念的な問題ではなく、身体的に小さくなるのだから自然と心は落ち着いてくる。大きなものは強いのだ。

子供の頃から自信を持て、と言われてきた。今でも、自分を信じろ、という教えはよく聞く。言っていることはわかるが、「今すぐ」自信のない自分を捨て、自信を持つ事はなかなか難しかった。それが、考えた瞬間、身体が変わり出したのだ。

今、勢いだけでこのノートを残している。この書かれた事を来週、来月、来年読み返すとまた違った感想を得るだろう。そのための備忘録だ。
これまで「身体」と考えていたものは「肉体」に近い部分だった。おそらく、今見つけたのは「精神」に近い身体。心と身体は一つだ、と言われているが、心の側へと想像の力は入ってくるのだろう。

こうして書き残すだけでも誰かに影響を与えるかもしれない。実はこの気づきを得たのは、全くの偶然。しかし、その時のお話がなければ決して今この場所にいない。何がヒントになるのか本当にわからない。
正しい事を書いて残さなくてはいけない、とつい考えてしまうが、それはやめようと思う。適当に読み飛ばしてそれぞれ、自分に向き合って欲しい。

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