好きを手に入れる方法

願望実現的な本を読めばほとんどのものに「好きなもの」、「ワクワクする事」を求めればいい、と書いてあります。

そして、今、私は「好き」について語っています。
なんだ、お前もか!と、以前の私なら思った事でしょう(笑)。
しかし、やはり、嫌いな事は続きません。続けられません。運の力を借りれば瞬間風速的に望みの場所へと行けるかもしれませんが、たどり着いた瞬間気は緩み、思いもがけない展開に巻き込まれたりします。

安易に夢が叶ってしまう事には気をつけねばならない、そう思っています。

想像を現実へと変えていくのに、「好き」が必要であり、条件なのは私の確信です。ただ、この「好き」が頭の好きなのか、身体の好きなのかが問題です。

世の中は便利になりました。肉体的苦労をほとんどする事なく、毎日を過ごせます。身体の事を気にせず過ごす事で、身体の好きを考える事すらなくなりました。必然的に頭の事ばかりを皆が考えます。
「好きな事」、「ワクワクする事」を求めた時、頭が必要とするものが思い浮かび、それが真実だと認識をしてしまいます。

そしてそれは若いうちには特に。
肉体が丈夫な若いうちは多少負荷がかかっても気になりません。それどころか、肉体に鞭をうち、そこで頑張る自分、そのストレスを乗り越えて強くなっていく自分を快感とさえ思いがちです。
確かに筋肉の働きなどを見てみれば、ストレスと休息によって大きくなる部分を見れば、それを求めてしまいたい気持ちはわからないでもありません。

しかし、人間は必ず、歳をとり、老います。
毎日毎日、少しずつ身体は変わるのです。もちろん、筋肉を育て、大きくする事も出来るでしょう。トレーニングを続ける事で老いから目を逸らす事はできます。ただ、それは頭の中だけの話。身体は追い続け、いつか、トレーニングの効果以上に老いがやってきます。

まずは鍛える事以外の道もある事に気づく事が大切です。筋肉だって人間の大切な身体です。しかし、それだけではありません。たくさんの可能性を知る事で、我慢から抜け出し、「好きへの糸口」を見つけやすくなります。そして、身体を観察していけばいくつもの可能性が見つかり続けます。

人生を変えるほどの経験をした事があるでしょうか?
ユーチューブを見れば人間には本当に様々な生き方ができるのだ、とわかります。ただ外へと出かけるのが苦手な人だっています。
私です(笑)。

しかし、私は甲野先生に出会い、身体感覚の世界を教わりました。そして、今では稽古をするたびに、考えもしなかった現実と出会い、驚かされています。退屈や暇は本当になくなってしまいました。ただし、出不精は変わっていません(笑)。日常生活の方が私は稽古が進みます。

ここで一つ疑問が生まれます。
なぜ、私は身体感覚の世界にずっと居続ける事ができたのか?です。
甲野先生に出会い、身体感覚の世界を「知る」事が出来た人、「体験」した人は大勢います。私も友人に紹介をしました。しかし、未熟な私の誘いでは彼らの興味は長く続きません。いつの間にか、身体感覚の世界から離れ、常識的な現実の世界を生きて行く事になります。

「好き」の話しをしました。
好きであれば続ける事が苦にならず、楽しい、と。
では私は身体感覚を探る事が楽しかったのか?
もちろん、今は楽しいです。自分の持っていた可能性の大きさを実感したから。しかし、始めた当初は、何が身体感覚なのかも全く分からず、楽しかったか、と言えばわかりません。好きだったか、と言えば、そのレベルにまで全くたどり着いていませんでした。

それでも続ける事が出来たのは、その時いる場所から強烈に離れたい、と思ったからです。これは好きの正反対。好きの反対は嫌い、と言われますが、嫌いは頭の中だけの事、嫌いという言葉以上に、身体自体がそれまでの自分を拒否したのです。
身体感覚という新しい世界を知って、もうこの場所には居られない、と無意識が拒否をした。今考えてみればそんな感じです。

「好き」を手にいれられればそれを追い求めればいいです。
勉強でも、仕事でも、スポーツでも、人間関係でも、好きがわかればそれでうまくいくはず。しかし、そもそもが苦手、無意識のレベルで持っている何かが「拒否」を作っている場合もあります。
また、人間の持つ心の働き、罪悪感や劣等感、使命感などが頭を操り、身体感覚を見せないようにもしてきます。どうすれば無意識レベルの好きを手に入れられるのでしょうか。

ここで「心身一如」の法則が役に立ちます。
心と身体は一つ、同じもの、というやつです。おそらく、ほとんどの人がこの法則を知っているでしょう。
楽しい事、ストレスのない生活をすれば身体は健康になります。しかし、これは心→身体への一方向だけです。もう一つ、身体→心だってある事を忘れてはいけません。

楽しい事をすれば健康になる、これはいいんです。楽しい事が出来る人はもう、それでどんどん好きも強くなり、夢が叶い続ける人生になります。ただ、肉体は老います。いつか身体を重荷に感じた時、人生がひっくり返る可能性があります。気をつけておかないと。

私はネガティブ側の人間。自分の好き嫌いがよくわからない人間です。何かと向き合うとまず、身体を固め、警戒します。こんな姿勢、おおよそ好きとはつながりません。

前回縄跳びのお話で紹介した姿勢、その姿勢をとる事によって、固まっていた身体が開きだし、自由を得ました。身体が伸び伸びと張られ、気持ちも動き始めたのです。
この姿勢こそ「好きの種」。目の前のもの、状況がどうであれ、この姿勢をとれば、まずは「好き」の第一歩に入れます。

外にあるもの、事が私の心を刺激して得た好きは、外にあるもの、事が変化し、無くなれば簡単に好きを失います。好きによって上げられたテンションは一気にひっくり返り、谷に落ち込みます。好きが強かったからこそ、喪失感も強くなります。

しかし、身体を意識し、姿勢を変え手に入れた好きはなかなかなくなりません。もちろん、鍛え上げた筋肉によって得た好きであれば、ほんの少しの気の緩みでなくなりますが、無くなる事の想像すらできない身体感覚だってあるのです。その代表選手が「左右」です。

左右の身体がそれぞれ、役割を自覚し、仕事をし働きを得ている時、私の心には楽しさが生まれます。自分の身体一つで楽しさの種、好きの種が生み出せるのです。
誰の身体にも左右はあります。右手と左手という左右もあれば、右目左目、右耳左耳、鼻の穴だって左右です。脊椎を手に入れた瞬間から左右が分かれたのかもしれません。進化とは何か、という問いだって私のもの、いやぁ、壮大な話です(笑)。

せっかく持って生まれた左右という能力。それを活かさない手はありません。もちろん、自覚をした上で、使わない、という選択肢はあります。それすらも許されている、そんな自由さもあるんだろう、と思っています。
しかし、便利なものや、親切な人、パワフルなお金と権力、それらのおかげでわざわざ左右の身体を意識する事はなくなっています。
本当にそれでいいのでしょうか?

もし、今、かなわない夢があり、少しでも苦しさがあるなら、それは幸運なのかもしれません。
便利なものでも、親切な人にでも、お金や権力でも手に入れられないものがあるからこそ、身体へと目が向けられるからです。最後の最後にやっと気にできるもの、それが身体なのかもしれません。

今日も途中から話があちこちに跳びました。
好きではなかった身体の事をなぜ追い続けられたのか、それについてもう少し書きたかったはずなのに(笑)。
でも、「現実と夢と身体」をテーマにする事は忘れていません。最初にマガジンとして名付けたからですね。こちらは勝手に思った事を自動筆記的に書いています。自分でも読み返すと不思議な感じです。毎日来てくれ、とは言いません。
それぞれのタイミングで、好きな時に、興味に従い、覗いてくれたら結構です。義務の全てを手放して過ごす場所をちょっとでも作ってくれたらと思います。


稽古の予定はウェブサイトで。
http://www.karadalab.com/

・11/29(日)川崎稽古会があります。
http://www.karadalab.com/kanto



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