運は嗅覚、覚悟は味覚

前回、運という場所について書いた。言葉にして、伝えているとどれだけ形のない、あやふなものでも慣れる(笑)。運という場所に生まれる力の存在は私にとって、揺るぎ様のない確かなものとなった。

慣れると同時に心には「飽き」が生まれる。一般的には飽きる事は歓迎されない。ずっと、楽しく集中して過ごしたいだろう。しかし、研究稽古においてはさっさと飽き、次のテーマへと興味を伸ばした方が良いように思える。

味覚の発見

昔から自分の味覚に自信がない。嗅覚もない。聞く事、見る事、触る事に関しては対象がしっかりしているし、多くの部分で共有も出来る。しかし、味覚、嗅覚に関しては個々の能力、感度によって有る無しが決まる。自信がずっと持てなかったのだ。

たまたま稽古前、ファミレスでいくつかの紅茶の飲み比べをする事になった。相手は敏感。香りや味、全然違う、と言う。しかし私にはわからない。砂糖は入ってないな、というレベル(笑)。

しかし、それでも、その紅茶の匂いを嗅ぎ、味を探る「機会」を得た事になる。そして、その時、「姿勢」が変わっていたのを見つけた。味覚に体感を得た瞬間だった。

味覚と姿勢

多くの人は味覚と姿勢が関係あるのか?と思うかもしれない。

こうして自信満々に言葉にしているが、もし、体感がなければ私もその口。味覚と姿勢の関係なんて・・・と考えもしなかっただろう。
しかし、大いにあったのだ。そして、なぜ、これまでここに集中し、研究をしなかったのだろう、と後悔した。

味覚という言葉から連想を重ねる。味覚は味、味は食べ物、活躍するのは舌、舌に集中している自分を観察してみると、徐々に舌そのものになっている自分がいた。

舌は特殊だ。骨のような硬いものがない。それでいて、指のように細かな仕事も出来ない。食事をする際、味を得る器官、そんな程度の評価。
しかも、お腹一杯になれば嬉しい私にとって、味は二の次。この考えが私を味覚の研究から遠ざけていたようだ(笑)。

舌になってみれば味を探っている瞬間の状態がわかる。味を探る時、身体的には受け身だ。食物が口に入り、舌で噛み締め味を探る。その時、「味蕾」という部分が働いている、というのはなんとなく知っていた。そして味蕾のイメージはたくさんの粒々。たくさんの粒々が懸命に食物に当たっていき、味を探っている。

身体的には受け身なのだが、気持ち的には前向きだな、とわかる。嫌なものでも、苦手なものでも、未知のものでも味を探る際には前向きでなくてはならない。余分な緊張は味を逃してしまう。ここにも私が味わえない原因を見つけた。

味覚がダメだったのは触覚的に緊張が多かったから。しかし、このダメさが、味覚に自信がない、というネガティブな特徴を与えてくれた事になるし、全然ダメだからこそ、一ミリでもそこに理解を得たなら嬉しい、というセンサーにもなる。できないからこそ、理解が進む。

この味を探っている最中、対象に対して「前向き」というのが姿勢である。
武術的に考えると、常に相手は私を殺しにくる敵である。自信があるなら武術はいらない。怖いからこそ、身体を鍛え、技を求める。「怖れ」があるのは前提だった。

しかし、味を主役にした際には怖れがない。いや、無いわけではなく、それ以上に前向きになっている。これは大発見。

舌の感覚を指先に写す

ここまでは口の中の話。ここからはちょっと訳のわからないものになるかもしれない。そのうちまた、慣れ、うまく説明できるかもしれない。

舌には味蕾がある。それはたくさんの粒々。指先にはそんな感じは無かった。しかし、形は似てなくもない。指はつるりとしている。粒々は見えないが、指だって細胞の集まり。そして、以前「鱗」という感覚を得ていたから粒々を想像するのは難しくない。

まぁ、単純にこの指が舌だったら、と思っただけのような気もする(笑)。
想像してみると随分と怪しい。しかし、稽古は実験、早速、その指先でコーヒーカップに触れたり、手を貸してもらい、相手に触れてみる。

この時「姿勢」を大事にする。形としての姿勢ではなく、気持ちとしての姿勢。指先に感じるものは何か?それを探る。
この時、それは「触覚」ではないか、と思うかもしれない。私もそう思った。しかし、触れる「前」が全く違うのだ。触れる前の「怖れのない気持ち」こそ、「味わう覚悟」によって得られる事。

この姿勢があると、これまで磨いてきた触覚が生きてくる。

味覚と覚悟

思いがけず「覚悟」という言葉を得た。のんびりと生きてきた私。人生の大半を「なんとなく」で生き、基本的に「逃げる」を選択してきた。しかし、今、「覚悟」を得ている状態を体験している。

これまでの稽古によって、触覚は随分と磨かれた。しかし、覚悟がない。いざとなれば動けるだろう、とは思えるが、そのいざは中々現れない(笑)。それはそれで平和で幸せかもしれないが、もう少し確かさが欲しい。欲張りなのだ。

しかし、とは言っても、あえて自分からトラブルへとぶつかっていく気持ちは生まれない。結局、ここに覚悟がなかったのだ。

大切な事、伝えたい事はここから。味覚を主役にして、「味わう」事を楽しむようになると、触覚を主役にするよりも「安全」だ、という事。怖いから身を守りたくなる。だからこそ危険に近づかないようにする。しかし、その時、すでに姿勢は恐怖に負けている。もし、この状態でトラブルと遭遇するならそれなりの代償が生まれる。

しかし味わう姿勢があるなら、結果的にトラブルからもヒントを得られ、僅かに早く事が進む。結果的に安全になるのだ。

先人の言葉

ありがたい教えはたくさんある。人生をポジティブに、前向きに、興味を持って、と教えてくれる人はたくさんいる。しかし、まず身体が恐怖に縮まるのだ。

恐怖を自覚している人もいるかもしれない。しかし、深呼吸程度では中々恐怖は消えない。ここで「味覚」が役に立つ。味わおう、という姿勢が覚悟を自然と作ってくれるのだ。

言葉を知っている者にとって稽古はそれを体感する機会となる。繰り返しの技を練習すれば、その技がもつ結果は身に付く。しかし、結果に目を奪われて、納得やひらめきは得られない。言葉を得ているのに、うまくいかない、そんな人こそ、稽古のチャンス。即効性はないが、身体感覚が積み重なり、ひらめきを得て、言葉に納得が得られるはず。

ぜひ、稽古の楽しさを知ってください。

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