川崎、東山稽古に向けて その2

一人稽古は簡単だ。何をしてもいい。何をしていてもいい。その時の自分を観察をすればいい。
そしてそれは精神的にでもいいが、心は形がなく、手掛かりになりにくい。続けるのなら自然と、身体的になると思う。

ただ、この「身体的」というのが難しい。そもそも身体ってのが何かわからなくなっている。
身体と肉体は違うのか?色々な事を思うかもしれない。

身体>肉体

最初のうちは身体でも、肉体でも、体でもなんでもいい。ただ、心じゃない方、精神じゃない方へと気持ちを向ければいい。
徐々に肉体とは違うものにも実感が得られだす。私はそうだった。想像や夢、イメージもそこに「身体」が主役になりだした。私の中では身体が主役になっていれば身体的、そんな感じで話をしている。

漠然としたイメージで構わないが、身体の方が肉体よりも幅広い。頭の中で作った肉体があればそれはもう、身体。逆に言葉を先に聞き得ても、肉体としての部分がはっきりしていないと、身体を置き去りにしてしまう。何となく、ぼんやりと聞いてしまう事になる。ぼんやりと聞くと基準がない。基準がない時、心の方が出しゃばってくる。私の場合、これがうまくいかない原因だった。

身体を基準にして過ごす

今、身体が必要なくなってきている。
ネットの中ではもちろんだが、実生活の中でも、身体に負担のかかる事はどんどんと嫌われ、機械やコンピューター、外注仕事などが代りにやってくれる。

成果を出すためならそれでもいいが、身体を刺激する事なしに、身体を理解する事なんて出来るわけがない。身体の事がわからなくなり、時々身体が勝手に反射、反応してしまう事に振り回されてしまうのも仕方がない。

今は何でも測れる時代。
フォロワー数や、お金、学歴や売り上げ、業界シェアなど、一つの目的に集中できる人なら、それ以外を犠牲にしてでもそこへと集中し続けられる。天才はどこにでもいるから、抜群の成果を出すが、大抵はいろいろと欲しい。

あれもこれも欲しいのが心だ。しかし、それでは行ったり来たりで結局何も得られなかったりする。だから身体感覚。基準が一つあればそこからどこにでも行けるし、どれだけ行ったか分かるし、さらに外へと出たい時、簡単になる。

言葉は簡単なのだが、難しい。
機械やコンピューターのおかげで、すでに「やれる事」が膨大なものになっているためだ。ちょっとぐらい手が動いたとしても、そこに成果はない。何がどう変わったのかすらわからないまま。

これは心が主役のままで居続けたいからかもしれない。答えはわからないが、わからなくてもいい。わからないものから遠ざからせるのも心の働きだ(笑)。主役を奪われたくないのだろう。

身体を基準にする時、まずは自分の周りから始める。今ここから、上下や左右、前後を探せば自然と、居場所が見えてくる。
よく「イマココ」なんて言葉が使われるが、今ここがわかれば肉体をどれだけつかまれても「動ける」。しかし、イマココという心地よい言葉を使う人も肉体を掴まれると動けない。それは口先だけの言葉だ。彼ら自身はイマココを得て動けるかもしれないが、それはすでにイメージの世界で基準となる強い自分を作れているからだろう。

上手くいかない人はこの基準がない。そして出来てしまう人はたいてい、最初から出来ていて、出来ない人の参考にはならない。何かに一生懸命になるという事自体がもう、才能だ。

私は「基準の作り方」を伝えたい。それが上下、左右、前後と内外を観察する作業になる。

心は邪魔、本当に邪魔

稽古をする時、心は邪魔だ。形がない心は私を惑わせる。基準を作ろうにも、モヤモヤと拡がってしまい手掛かりをなくす。

そして、この弱気な心が最初の一歩を踏み出させてくれない。

「自分にも出来る」

この感覚が何より大切。
出来ない事をやろうとすると才能任せ、運任せになる。まぁ、時間をかければ時間が助けてくれるが、好きでもない出来ない事に向き合う事の方がはるかに難しい。

しかし私は「出来る」を実感するための手掛かりを持っている。それを試した時、自分の中にある「出来た」を感じられるはず。ただ、この時も心は邪魔をする(笑)。なんだかわからない、と心は騒ぎ、怪しいものには近づかないようにしよう、と逃げ出させる。
しかし、それでも大丈夫。その「出来る」を実感するものは私たち日本人には馴染みが深いものが多いからだ。

下駄の効用

下駄には効用がある。身体感覚をこんなにも変化をさせてくれるものを他には知らない。何か一つだけ持って行っていい、と言われて一番に思いつくのが下駄だ(笑)。

以前「下駄の効用」としてブログに残したものがある。これも参考になるかもしれないので興味があれば見て欲しい。
下駄の効用

ただ、下駄に乗っても、心はそこに変化を見つけさせない。あまりに当たり前すぎるからかどうかはわからないが、その瞬間、大変身した事に気づかせない。だから稽古によって、「変身している」事に気づいてもらう機会が必要になる。

下駄に乗れば身体は軽くなる。これだけ下駄をプッシュされて乗ってみれば、どこか痛めている人は変身に気づけるかもしれない。しかし、それでも、心は遠慮させる。まさかこれで掴まれても大丈夫になるようになっているとは思えない。心はいつも、邪魔をしている。

下駄に乗れば足元が確かになる。普段、小さな足指でバランスをとっているのだろう。軽い荷物を持っても、バランスは崩れる。そのバランスの維持はコンピューターにだって難しい。しかし、心と体は難なくそれをやりきる。
しかし、複雑すぎるので、そのバランスをとっている時、脳の大半をそこに使ってしまっているのではないか、と思う。せっかくの脳の働きを活かせない。

下駄に乗ればバランスを下駄に任せられる。地面に触れた体重を持った肉体、それが自然と跳ね上がる。瞬間身体は空中へと跳び、浮く。無重力状態に近いのではないかと思うが、まさか下駄にそんな力があるとは誰も思わない(笑)。下駄の評価は低いままである。

しかし、これは本当だ。下駄を履き、人をしょって歩いてみたりすれば、そこに大変身を自覚できるはずだ。
下駄が出す大きな働きは「上下」。身体がうまく上下のリズムに乗っている時、身体を動かすのが楽だ、と気づかせてくれる。
次回また、改めて「上下」について話をするが、今日知って欲しいのは「自分にも出来る」という事。

自分の中にも出来る可能性がある、という一点から稽古を始める事がなにより大切だからだ。
上下、左右、前後、内外に身体感覚の世界を拡げて行く話をしたいのだ。その時、なにより、「点」が必要。基準点が必要なのだ。

基準点は自分にも出来るという思い

身体の話ばかりをしているのに、ここだけは「思い」がいる。自分にも出来る、という瞬間の心はどうしても欲しい。
そしてそれが基準点になり、全方向へと自分を広げて行く。

何かが出来るようになった時、そこに手助けされた感覚があるとそれに依存してしまう。私はダメだけど助けてくれてありがとう、と。助け合いの世の中だけど、自信がないままの人生ではやはり面白くない。

下駄の素晴らしいのは、下駄に乗り何かが出来るようになった時、そこに下駄に対しての感謝の気持ちが圧倒的に少ない点。誰も下駄に感謝をしない(笑)。
それぐらい下駄は謙虚だ。

何かが出来ても、なぜそれが出来たのか理由がわからない。自分よりも大きな人を背負っても歩けるようになるのに、それが下駄によってさせられる事を頭が受け付けないのだろう。この時、自然と、それを可能にしたのは自分自身にあるのかもしれない、という小さな思いが生まれている。

全ての可能性は自分の中にある

こんな変化を見せてくれるものを私はたくさん得ている。これまでの稽古でいくつも見つかった。

最近では「玄能」がそうだ。金槌の頭。固い金属のあれ(笑)。魂のこもった玄能を持った時、身体がまとまる。これも試してもらえるように持っていこう。ちゃんと忘れずに(笑)。

また、着物もそう。邪魔な「袂」があるおかげで腕の振る舞いが変わってくる。自然と腕に「らせん」が生まれて身体の動きを助けてくれる。

同じ理由で袴は脚に動きを与えてくれるし、もっと馴染みのある道着など、ごわごわしたものを着れば自然と体幹、背中に意識は向かう。

和菓子を食べる時に使う「黒文字」も身体を変える。指に持った時、強烈に身体の流れを変える。指先から、黒文字への先へ力が流れ出す。超強力なデトックス効果がある(笑)。

しかし、これらは皆自己主張をしない。これらの物によって助けられ出来るようになった事の原因に気持ちを向けた時、やはり、自分に可能性があったのだ、としか答えが出ない。

そしてそれはおそらく正しい。高性能な機械はそれ自体が働き、成果を出す。しかし、ただ均一なもので作られたものだ。それは私を変えるきっかけになっただけで、働きは私自体が生み出しているとしか感じられない。

一人稽古はいつの間にか自信を得てしまう

私は自分に自信を持てなかった人間だが今は違う。しかし、頭の自分には相変わらず自信を持っていない(笑)。私が自信を持っているのは全ての土台になっているこの身体の方。

私を変えてくれたたくさんの物のおかげで、身体に豊かな「動かし方」があるのを知る事が出来た。そして、まだまだ身体は奥深く、何かが隠されているとしか思えない。

今できない事を見つけても、まぁ、身体は何とかしてくれるだろう、という思いがある。また、この先、どうしてもそれを手に入れたい!という大きな欲に火がついても、身体に任せれば何とかなるだろし、それが最短距離なのだ、とも思う。

上下の話から書いていこう、と思い書き始めたのに、思いがけず、思いの方へと行き、またわかりにくいノートになってしまった(笑)。
ただ、「自分にも出来るという基準点」の話が出来たのは良かった。全てはここから。誰の中にも無限の可能性があり、今の自分で十分。今の自分で大丈夫、というところから始めるのだから努力など要らない。

次回はちゃんと、上下の話をします(笑)。金曜の東山の稽古、日曜の川崎稽古までに、上下、左右、前後に内外、間に合うかなぁ・・・。

【ご連絡】
今月の東山の稽古は定員となり、締め切りになりました。来月も「第4金曜日午前中」を予定しています。

川崎稽古はもう数名大丈夫。
稽古日時:2020/11/29(日)14:00~18:00
http://www.karadalab.com/kanto

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?