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雑感(07)戦争に関する作品や教育のあり方

8月は戦争に関する番組や映像作品が多い。そういったものや我が国の戦争教育のあり方について、愚見を述べたい。

戦争をテーマにした番組・作品、そして学校の教育現場で使用される教材の多くが、戦争の悲惨さや無辜の民が被った惨事などを伝えている。それらはたしかに大事だが、そこに終始していては何も前に進まないはず。「○○の空襲で○○人が亡くなった」「当時の人々はこんな苦しい思いをした」等を通して「戦争はダメ」「戦争を繰り返してはならない」と説いたところで、それ以上の発展性はない。

「戦争はダメ」「戦争を繰り返してはならない」は、程度の差こそあれ誰でも理解している共通の価値観だろう。それにもかかわらず戦争がなくならないのはなぜか。

ひとえに、「なぜ戦争が起こったのか」「どうすれば戦争が防げるか」に対する勉強や考究が足りないからだろう。戦争の悲惨さに関する知識や当時の人々に対する感情移入も大事だが、ある程度踏み込めばそれで十分ではないか。そこに必要以上の時間を費やすよりも、同じ時間を「なぜ戦争が起こったのか」「どうすれば戦争が防げるか」の勉強や考究に充てる方が生産的ではないか。時間は有限である。

そもそも、戦争の悲惨さを知ることは、戦争をどうやって防ぐかを考えるためのきっかけや第一歩に過ぎないのであって、前者が手段、後者が目的である。手段にばかり時間と手間を費やすのは、無駄とまでは言わないが、もったいない。

手段にばかりこだわって、目的を忘れる。我が国の政治のようだ。「少子高齢化を食い止めなくてはならない!」何のために? 「地方創生をしなくてはならない!」何のために? 「誰一人取り残されない社会をめざそう!」何のために? 「脱炭素化!」「デジタル化!」…。

それらの政策は手段でしかない。そもそもこの国をどうしたいのかという経綸(目的)が欠けているため、お題目だけ唱えているうちに政府が膨張し、あげくは国民の託した税金が現金として手元に戻ってくる有様。どんなコメディ作家でも思いつかないシナリオを、700人もいる国会議員たちが大真面目に描いている。ウケ狙いにしては寒いが。

戦争を防ぐには、正しい政治家を増やすこと。正しい政治家を増やすには、国民一人一人が考えること。政治家に責任をなすりつけるのはやめよう。敗戦したこと以上に、その責任を国民が政治家へ転嫁したことの方が、先の大戦で我が国の犯した最大の過ちだと思う。

そうして国民が反省する機会を逃して80年近く経った今、日本海・東シナ海・南シナ海における緊迫した状況を前に、完全に平和ボケしている。その平和ボケぶりは、黒船に慌てふためいた幕末に劣らない。当時はたった四杯(四隻)の上喜撰(蒸気船)で泰平の眠りを覚ましただけまだマシで、今の我が国は、ミサイルが発射されようと不審船に領海を侵されようと目を覚まさない。その上、GHQの素人たちがたった9日間で諸外国の法典や憲章からコピペして作った文系大学生レポートのような草案をもとに成立した憲法を、後生大事に崇拝している始末。そんな国だから、戦争教育も上記の通り覚束ない。

民主主義政治の責任は、政府でも国会でもなく国民にある。国民が社長で、政治家は部下である。部下のミスは社長の責任。その責任を国民が自覚しない限り、亡国は免れない。国民の一人として、これからも本を読み、作品を観て、学び考えたい。

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