僕がインターネット時代に大事にしていること

僕は 「ネットでなにかを広く発信するときは必ず実名を使う」 と決めています。
ライブ配信へのちょっとしたコメントとかは匿名でやることもあるけど、基本的に文章を投稿したり、誰かと話したりするときは実名を出してます。

その理由は卑怯者になりたくないというのもあるけど、 「実名で胸を張って言えないことは言わない方がいい」 という経験則というか、迂闊な発言によって無用なトラブルを避けるための処世術みたいなことでもあります。

もともと陰口とか嫌いなんですよね。陰では悪口いうくせに本人の前ではヘラヘラ媚びへつらう人間になりたくない。だから 「本人の前で言えない言葉は誰にも言わない」 という自分なりの戒律を大事にしてきた。

そんな僕から見て今のインターネット…特にXみたいな匿名的SNSは最悪です。名前も顔も素性も出さないアカウントがいくら集まったところで、生身のひとりの人間の重みを凌駕することはできないし、お前らどうせ対面では言いたいことも3分の1も言えないPure Heartの坊っちゃん嬢ちゃんたちなんだろうと思ってる。

ただそんな僕の考えとは裏腹に、すでにSNS上の匿名アカウントの群がりが世の中を劇的に動かしてるのも事実だと思ってる。Pure Heartなのは僕の方だったのかもしれない。世の中そんな綺麗事だけで動いてくれない。

先見の明アピールみたいで嫌だけど、SNS黎明期に僕はそういう世の中の流れをせき止めようと頑張ってたつもりなんですよ。みんなが匿名でアカウントをつくる中、僕は一般人のくせに顔出し実名にして、リアルな人間関係の重みをちゃんとSNS上にも持ち込もうとした。

2ちゃんねらーみたいな人たちからの猛反発を受けたこともある。「匿名を悪だと決めつけるな」 とか 「わざわざ顔だすとかナルシストかよ」 とか。アホか。僕だって匿名で無責任に好き放題言いたいっつーの。でもその先に見える世界があまりに嫌だったから自制してたんだっつーの。

まぁそんな僕の抵抗が功を奏することなど当然なく、新聞もテレビも著名人も匿名アカウントの意見を当たり前のように取り上げるようになり、その集積が "民意" のようなものを形成するようになり、人々は炎上やトレンドから規範意識を内面化し、「お天道様が見てるぞ」 から 「SNSのやつらが見てるぞ」 の時代になった、というのが僕の現状認識なわけです。最悪。

もはや匿名だからって発言を軽視できる時代じゃない。そんなこといったら言論弾圧だとか言われる。名前を出せない事情もあるとか言われる。知らねーよ。名前くらい出せよ。家族に同級生に上司に見られる覚悟もないくせに 「ツイッターデモで世の中を変えよう」 とかイキってんじゃねーよ。まず自分の知人から変えてけよ。ゲボが。

というのが嘘偽りない僕の心中でありますが、いまさらSNSを実名化するとか無理だし、Xの社会的影響力を減らそうなんてのも無理だし、そこはもういさぎよく諦めました。せめて僕個人は使わない。それだけ。

でもそれとは別のかたちで、僕にとって大事なものを守ろうと思ってはいます。それは 「コピペできるような意見や主張そのものじゃなく、それを言った相手の人間の総体をあわせて読みとる文化をつくること」 です。

僕がこのnoteに自分の過去の経験 (パンクロックが好きだった) とか、自分の生々しい感情 (三浦瑠麗さんへの性愛的欲望) をあえて書いてるのは、そういう個人的な趣味嗜好と、僕の政治的意見とか学問的見解のあいだには、ふかーいつながりがあると思ってるからです。

人間ってのはそんなに観念を独立させて、理屈や理論を純粋に思考できる生き物じゃないと思うんですよ。それこそ行動経済学の本にいっぱい書いてあるけど、温かい飲み物を出されたら 「この人は温かい性格の人だ」 と印象づけられてしまったりするし、本が物理的に重ければ重いほど 「ここに書かれているのは重要なことだ」 と思ってしまったりするんですよ。

そんな風に関係ないパラメータ同士を結びつけてしまうバグ欠陥だらけの脳で思考している以上、僕の意見や主張には必ず、過去のしょーもない経験や偏見が影響しているし、たとえば元カノと似たAV女優に興奮してしまうみたいなのと同じレベルで、自分が良いと思う思想・信条ってのは決まってくると思うんです。

現代はそういうことがぜんぜん意識されてない。意見・主張というのはもっと純粋な "理念" みたいなもので、それを共有することで団結・連帯できるし、Xでハッシュタグ投稿やリツイートをすることで自分の "理念" を表明できるのだと考えられている。

嘘だよそんなの。あんたが持ってる "理念" ってのはあんたの唯一無二の人生が生み出したドロドロでぐちゃぐちゃな混合物みたいなもので、それを無理やり誰かの書いたそれっぽい言葉に当てはめて 「これだ!これこそが自分の考えだ!」 と錯覚してるだけです。西野カナの歌詞に 「これって私のこと歌ってる!」 と思い込むようなものです。

だから僕は具体的には "雑談" みたいなものが大事なんだと思ってて、単に特定の議題やテーマについて理屈や理念を語るんじゃなくて、その人の頭の中がどんな感じになってるのか、たとえばポケモンではピカチュウが好きなのかそれともフシギダネが好きなのかとか、そういうところまで知っていける場を増やさないといけないと思ってる。

……というこの僕の考え方自体も、東浩紀さんの "シラス" の理念なんかに影響を受けていま言ってるだけのことかもしれないし、そもそもなぜ東浩紀さんを好きになったのかといえば、僕の名前が同じ "ヒロキ" だということが関係しているのかもしれないし、あるいは『動物化するポストモダン』で『月姫』について書いていたことから親近感をもったのかもしれないし、だとしたらそもそも僕が月姫を好きになったきっかけは……

と、どこまでも遡っていけるんですよ。人間ひとりの頭の中ってのはそんな風にめちゃくちゃグチャグチャでドロドロでわけわかんねーものなので、それを "同じ理念" みたいなものでくくって同質化していくんじゃなくて、「理念は似てるけど結局は違う人間だから、それぞれの文脈を大事にしようね」 という個別化こそを大事にしたいと思ってる。

……というこの個人主義的な考え方すらもおそらく西洋のロックンロール音楽に表された 「正しさよりも自分らしさ」 という価値観を中学生ごろから受け取り続けたことに影響されてるので、だから僕がパンクロック好きだという情報が大事になるわけだし、他者の考えを理解するってのはそういう風に関係なさそうなところをたくさん集めてなんとかなーく理解できたかなーって思うけど実際には理解なんてできるわけないっていうものなわけなので。

「理解とは誤解の総体にすぎない」 って言ったのは誰だったっけ?村上春樹か。これも僕の名前が "紘樹" なことと関係してるかもしれないし。まじでそういうレベルのことから人間性とか思想とか信条とかってつくられてくと思うんすよ。ほんとに。わかってくださいよ。なんとなくぼやーっと浮き上がってくる 「この人はこんな感じ」 みたいな印象を、ネット越しでももっとちゃんと伝わるようにしたいんすよ。Xじゃ無理なんすよ。キャラクター化=言語化・カテゴライズとはまた違うんすよ。固有のものとしての人間の総体をそのまま受け取るって感じなんすよ。頭の中にある観念の枠にその人を押し込めるんじゃなくて、その人自身という総体をひとつの観念として頭の中に取り入れるような、そういう関係性を、いままでそういう観念役を担っていた芸能人たちだけじゃなくて、一般人同士の関係の中に広げつつ、その中で議論みたいなことをしていく場ってのが大事だと思ってるんすよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?