匿名の害 / 実名の責任

僕にとっては当たり前すぎて「10分考えたらわかるだろ」って感じのことなのだけれど、どうもわかってない人がいるようなので、僕がなぜ実名でNoteなど (以前はTwitterも実名顔出しでやっていた) をやるのか説明しておく。

人がなぜ嘘つきホラ吹きにならないかというと "信用" というものが簡単に獲得できない貴重な資源だから。
オオカミ少年の童話で教えられるように、嘘をつけば信用がなくなる、それ以降の "その人" の言葉は信用されなくなる。

でももしオオカミ少年が、自分のことを誰も知らない村に移住すれば、失った信用はいったんチャラになる。
あるいは顔と名前を変えて、同一人物であることがわからなくなれば、やはり信用はチャラになる。

と考えると、僕らが嘘つきホラ吹きになることを押し留めている抑止力は「嘘をつけば、この名前・この顔で生きていくのが困難になるから」という損得勘定にすぎない。

じゃあもし、顔も名前も好きなときに好きなだけ変えられる世界があったらどうなるか。
嘘をついてもホラを吹いても、3日後には別の顔と名前で発言できる。
たとえ "嘘つき" と全員に思われたとしても、その評判が一生涯続くわけじゃなく、顔と名前を変えればチャラになる。

つまり、顔や名前というほとんど一生抱えるものを担保に発言するからこそ、僕らはホラ吹きにならないように慎重になる。
Twitter上では嘘をついても失うものが少ないから、嘘やデマが不用意に拡散されまくる。

こんなの自明で「目をつぶって道路に出たら轢かれる」ってくらい当たり前のことだと思うのだけれど、匿名なのに (その名前やアカウントに失い難い名声があるわけでもないのに) 、実名アカウントと同じ土俵に立っているつもりの人がとても多いので、もしかしてわかってない人がいるんじゃないかと思い、説明しました。

加害者になりたくないという意識があっても、不用意な手違いや勘違いによって加害者になってしまうことは誰にでもあります。
「悪意はなかった」なんてそんなの当然です。悪意がなくても加害は起こります。
僕は逃げ道があれば、加害者としての責任から逃げてしまうような人間です。顔と名前を変えられるなら変えてしまう人間です。
その弱さを自分でわかっていて、でも加害を生みたくないという気持ちもあるから、せめて逃げ道を塞いでおくことで、自分の言動に対して慎重になろうとしています。

しかし考え始めて気付いたのですが、「加害者の家族や身内まで叩く」という風潮は、匿名文化を助長させますね。
僕だって、自分の言動の責任を自分で負える状況ならいいけど、それが関係ない家族や身内にまで及ぶのだとしたら、名字を隠すくらいはしてしまうかもしれません。

実際に加害との因果関係があるならまだしも、なぜ「家族だ」「身内だ」というだけで加害者一味のように見られるんでしょうね。
たぶん江戸時代の五人組みたいな「共同責任」が染み付いてるんじゃないかとか思ってますけど。まぁその辺は勉強不足なので違うかもしれません。こんど日本史得意な人に聞くか本読むかしてみます。

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