半夢日記 (Twitterが嫌いな理由~権威と同調圧力)

今日も12時間くらい寝たので記事を書きます。
たくさん寝たあとは、自分についての発見みたいなものが見つかることが多いというか、頭の中でいままでつながっていなかったもの同士がつながって、ひとつのストーリーみたいなものが出現する可能性が高いような気がしております。

あるいは夢を見ているときの脳の状態 ー つまり本来は関係ないはずのもの同士を支離滅裂なストーリーによってつなぎあわせているだけなのに疑いもなく受け入れてしまう状態 ー が、起きたあとも継続されているがために、統合されていないただの事象の羅列を "筋の通ったストーリー" と感じてしまっているだけかもしれません。

その状態のまま記事を書いているとすれば、これはもはや狂人の書く日記のようなものでありますが、それはそれで読み応えがあっておもしろいと思うので、なにはともあれ書いてみます。

今回の記事はこちらの4本立てになっております。



◇ なぜTwitterがそこまで嫌いなのか

僕がTwitter (X) 嫌いなことは過去の記事にも書いたと思うんですが。
無限にある嫌いな理由のうち今回とりあげるのはこちらです。

「他のリプライと同じことを送る人たち」

これは僕自身が体験したことでもあります。
2020~2021年の冬、まだCovid-19で緊急事態宣言が断続的にだされていた時期、僕は千葉から東京のお台場まで電車通勤をしていました。そのため通勤ラッシュ時のすし詰め満員電車もしばしば味わっていました。

ある平日の朝、ツイッターのトレンドに 「通勤電車」 が入っていて、なんだろうと思って見てみると 「コロナなのにテレワークもせずに通勤してるやつらが多すぎる!なんなんだこいつらは!」 といったツイートが並んでいました。中には電車内部の人々の写真をとってあげている人もいました。

それを見て僕が感じたのは 「この写真をとってあげている人も、満員電車をつくりだしている乗客のうちのひとりじゃないか、なにを自分だけは正義のツラしてやがるんだ」 という責任転嫁野郎への怒りでした。

そこで 「満員電車に文句を言っている人たちは、透明人間かなにかのつもりなんでしょうか」 というツイートを投稿したところ、それが拡散され、数十件のリプライがつくプチ炎上になってしまいました。(※付録)

ここで僕が失敗だったと思うのは 「満員電車に文句を言っている人たち」 という表現をしてしまったことでした。
僕のツイートの趣旨は 「自分も電車に乗っているのに満員電車に文句を言っている人たち」 に対する意見だったのですが、そこを省いてしまったのは自分の落ち度だったと思っています。

そのせいもあって 「お前はなにもわかっていない」 「テレワークができない会社員の気持ちも考えろ」 「満員電車を知らない田舎者か?」 「アスペは黙ってろ」 的なリプライが何個もついてしまいました。

そうしたリプライから僕が感じたのが、
「この人たち同じようなことばかり言ってくるな」
という印象でした。

たとえば、リアル空間で10人くらいで集まっていたとして、Aさんの発言に対して 「それは〇〇だと思う」 という意見をBさんが言ったなら、わざわざ他の人がそれをもう一回繰りかえすことはあまりないんじゃないかと思います。

「うんうん」 とうなずいたり、ボディランゲージみたいなかたちで同意を示すことはあっても、言葉としてリピートするのは時間の無駄というか 「それBさんがさっき言ったよ」 ってことになるでしょうから。

「ネットではそういうボディランゲージがないからそうなるのかなー、でもいいねとかRTとかもあるし、どうしてもリプライ送りたいならBさんに 「同意です」 とかいえばいい話だろうし、なんか違和感があるなー」

そういった考察を出発点として、僕の半夢の脳は次の話に進んでいきます。


◇ 権威以外の発言に興味なさすぎだろみんな

ツイッター上では、他の人がすでに言っている意見を繰りかえし投稿するようなムーブがよくみられる。これはリアルの場だとなにに喩えられるだろうか……。

そこで僕が思いあたったのが学校の教室です。
先生の言うことを生徒がきいて、生徒側もそれに応じて意見を表明する、いわば 「1 対 30~40」 のタテの関係ができているわけです。
しかしそこにはヨコのつながりがほとんどありません。ある生徒が発した意見に対して、別の生徒がさらにやりとりを被せていくようなことは、多くの授業では認められていない。

YouTubeのコメント欄にも同じことが言えるかもしれません。
YouTubeでは出演者や動画そのものが先生にあたります。
それに対して 「良かった」 「悪かった」 「こう思った」 「ここは違うと思った」 などの意見を投稿する人々が生徒です。
生徒たちが意見を伝えるのは、あくまで出演者・動画に対してであって、コメントの意見にコメントが意見を返し、それが続いていくようなことはほとんどありません。あっても2~3往復くらいが関の山という印象です。

それはYouTubeコメント欄というプラットフォームがヨコのつながりを想定してつくられていないからだと思いますが。(たとえば 「このユーザーのコメントを追う」 みたいな機能もないですし)

でもTwitter (X) はどちらかというとヨコにつながるために設計されているプラットフォームのはずです。それなのになぜ先生と生徒たちのような 「1 対 n」 の関係になってしまいがちなのか。

それを考える上で、僕の半夢の脳はこの記事とのつながりを見出しました。

この記事は簡単にいえば 「徳川時代のようなお上下々の民との関係のモデルが、現代の日本社会にも強く反映されているんじゃないか」 ということを政治をテーマに書いたものです。

僕の半夢の脳は、その構造がYouTubeコメント欄やTwitterにもいえるんじゃないかと思ったわけです。
つまりネット上で人々は、動画投稿者や元ツイートの投稿者をひとつの "権威" のような存在として受けとめて、それに対して "評価" をしているつもりになっているんじゃないかと。


◇ イベントスタッフやライブ出演者として感じた "権威"

そうした "権威" に対する人々の態度というのはかなり極端です。
全面的に信用するか、全面的に非難するか、そのどちらかしかない。
つまり相手をぶれぶれで失敗もするひとりの人間としてではなく、ひとつの擬人化された象徴のようなものとして、アニミズム的に消費することに近いと思っています。

学校の例でいえば、子どもたちにとって先生というのはすごく特殊な存在です。
今の時代はどうかわかりませんが、僕の感覚では、先生がなにかひとつでも間違ったことを言うと、それを子どもは大問題として捉えます。
「先生は正解を知っている」 「先生の言うことこそが正解」 という前提で物事を考えているので、たった一個の間違いでその前提が揺らぐだけでも、足場がぐらつくような不安を感じるわけです。

権威を使って仕事をする存在には、多かれ少なかれそういう極端さがつきまとうものだと思います。
僕は前にイベントスタッフの "チーフ" についての記事を書きましたが、そんなバイトリーダーみたいな中途半端な役職でさえ、それがあるとないとではアルバイトの人たちの態度に変化があったことを実感していました。

たとえば、僕がはじめてチーフとして人に指示するようになったころ、自分の言ったことが無条件に受けいれられることに怖さを感じました。
僕は友人に 「アルバイトの人たちは、僕が "井戸にこの薬品をいれてきてくれ" と言ったら、それが毒かどうかも確認せずにいれてきそうな気がする」 と相談しました。

それは村上春樹やハンナ・アーレントが語る 「指令に対して忠実すぎる役人」 の恐怖を、はじめて抽象的なものじゃなく現実のものとして我が身に感じた瞬間だったかもしれません。

実際、僕の人生を振り返ると、チーフを経験したことによって、政治や統治についての関心もものすごく高まったように思います。
チーフをやることで 「統治する側」 の気持ちに関心が向き、政治などを我が事として捉えるようになったとも言えるかもしれません。
これは実際に大組織の統治をおこなう役職者からしたら鼻で笑われるような思い上がりに過ぎないとは思いますが、事実なので仕方ない。隠さず書くしかありません。

それ以外にもイベントスタッフの仕事の中では 「1 対 大衆」 を意識させられる場面が多かった。
たとえば1000人くらいのお客さんをひとつの列に並べて、それを混乱のないように入場させるというのもなかなか大変なことです。
比喩的にいうなら羊を導く牧羊犬みたいなものです。もちろんヒトは他の動物と違って言葉を聞いて理性的に動いてくれる良い人ばかりですけど。

ただ僕が大声をあげて (あるいは拡声器を使って) 1000人規模のお客さんに指示をすると、その通りにお客さんが動いていく。それはやっぱり恐怖でした。
「もし悪意ある赤の他人が、スタッフのふりをして変な誘導をおこなったら、この人たちはどこまでいっちゃうんだろう」 という恐怖です。

僕はお客さんに顔を知られているわけでもなくただ 「スタッフっぽい人」 と認識されているだけにすぎません。
"スタッフ" という肩書きもひとつの権威だと考えるなら、チーフの話と同様に 「権威に盲目的に従う人々の怖さ」 として考えることができるんじゃないかと思っています。

更にもうひとつだけ例をだすなら、僕は20歳前後の頃にバンド活動をしていて、ライブも月に1本以上やっていました。
ライブというのもまさに 「1 対 n」 の場です。少し高くなっている場所に立って、こちらを凝視する人々に向かってなにかを表現するという意味では、先生に似ているところも少しだけあるのかもしれません。

そこでは恐怖というほどのものは感じませんでしたが、
「おら!お前ら手あげろ!」 という煽りに対して素直に手をあげる人たち (そのくせノってるわけじゃなく棒立ち) とか、
「手拍子おねがいします!」 に対してすなおに手拍子をしてあげるやさしい人たち (やはり棒立ち) とか、
そういうお遊戯会みたいな茶番にイライラしていた時期はありました。

もしかするとそのイライラがすべての出発点になっているのかもしれません。ヒトの一生というのはおもしろいですね。そのイライラから僕はハンナ・アーレントの "凡庸な悪" に共感し、リバタリアンの思想に傾倒し、こうして日々、統治についての本を読んではブログを投稿するようになっていったのかもしれません。


◇ 同調圧力・付和雷同の人々

以上のような経験から僕の半夢の脳が導き出したストーリーをまとめるとこのようになります。

日本の人々は、徳川時代のような 「権威 対 下々の民」 という君主政じみた統治感覚を持っている。

先生という職業や、業務指示者の役職などは、そうした感覚を活用しているもので、権威によって人々の行動をコントロールしやすくするもの。

そうした権威者はひとりの人間というよりも、象徴的な存在として、擬人化された観念のような存在として認識されることも多い ("先生" や "スタッフ" など)

ネット上ではタレントはもちろんのこと、動画投稿者やバズったツイートの投稿者もそういった権威者の立ち位置を一時的に担わされることがある。

権威者の発言は、盲目的に肯定される場合もあれば、徹底的に否定される場合もあり、両極端になる傾向がある。

この最後の点について少し補記しようと思います。

先生が権威を失うと学級崩壊が起こり、イベント運営者が権威を失えば人々は入場確認もなしになだれのようにステージに殺到します。たぶん。

そうならないように支えているのが 「この相手の言うことには従わなければいけない」 という感覚で、その感覚を僕らは "権威" と呼んでいるんでしょう。たぶん。

その権威は、実際の権限に支えられている場合もあります。
たとえば、先生が生徒を謹慎処分にしたり退学させたりする権限をもっていれば、従わなければいけない理由が生まれます。
もっとシンプルに体罰に寛容だった昔の時代は 「先生に逆らえば殴られる」 というのも理由になったでしょう。

イベント運営でいえば、迷惑客に対しては入場拒否やチケット販売停止という最終手段がありました。だからコンサートやイベントの現場では本人確認が重要なのでしょうね。たぶん。

でもそうした権限がないハリボテの権威も存在します。
バイトリーダーやチーフってのはそれに近くて、そういった人には制度上の裁量権はありません。指示に従わなかったアルバイトを解雇したり、減給したりすることはできません。

でもそのハリボテの権威にすら人々は従ってしまう、というのが僕が人生を通じて得た感触です。

ディスコードサーバーの "副管理人" みたいなのもそうですね。実際の権限があるかどうかに関わらず、肩書きなどの権威っぽさによって、行動をコントロールする効果が生まれてしまうのが、人間のおもしろいところです。

つまり 「権威っぽいものに対しては、基本的に従うべき」 という行動様式が人々の身体に染み付いているんじゃないかと思います。学校教育の賜物でしょうかね。

別の側面から見ると、そういった行動様式は同調圧力によっても強化されていると思います。
たとえば授業中の教室には、先生という権威が発するタテの圧力に加えて 「周りの生徒が誰もやっていないからやらない」 というヨコの圧力もはたらいているわけです。

僕の中学は一時期、授業がなりたたない学級崩壊の状態にあったんですが。
そこでは先生によるタテの圧力が弱いことに加えて、生徒たちによるヨコの圧力が逆方向にはたらいていました。

つまり、それまでは 「みんなが静かにしてるから自分も静かにしなければ」 だった同調圧力が、「みんなが遊んでるから自分も遊ばなきゃ」 という同調圧力に変わっていました。
そうなると黙々と教科書やノートを開いている人こそが異端者になり、そういう生徒はイジりやイジメの対象になりました。

もし普段の授業中にうるさく喋るやつが1~2人だけいたら 「そこうるさい!迷惑!」 と非難の対象になりますよね。冷たい目でみられたりしますよね。
学級崩壊中は真逆です。静かに勉強してるやつがいると 「お前なにやってんの?そんなに先生に気に入られたいの?空気読めよ」 と非難されます。

ちなみに僕は先生側にも生徒側にもつかず 「学校に行かない」 という第三の選択肢をとった人間です。リバタリアンっぽいでしょう (^ω^)

それはともかく、こうした経験から僕は同調圧力の影響の強さと、それが簡単に反転してしまう恐ろしさみたいなものを感じたのでした。

そしてこれはたぶん疑問の出発点だった、
「他の人と同じようなリプライを送る人たち」
についての説明にもなるんじゃないかと思います。

まぁ一言でいえば 「赤信号みんなで渡れば怖くない」 ってやつですね。
誰も信号無視していない状況では歩き出さないけど、周りの数人が歩き出したら自分も歩き始める。

それと同じように、ツイートに対して誰もリプライをつけていない段階では送らないけど、みんなが似たような意見を投稿していると、自分も同じような意見を投稿する気になる。

Twitterの場合は更に、リプライがつき始めると多くの人の目に触れやすくなるという設計の影響もあって、同調的なリプライが雪だるま式に増えていくんでしょうね。


付録: 過去のツイートについての弁明

今更この場で弁明してもしょうがないんですが……。
プチ炎上したツイートは知り合いにも見られていたようですし、本名でやっていたアカウントということもあるので、ここに付録として当時の僕のツイート全文とその趣旨を書いておきます。

「通勤電車が相変わらず混んでる!どうなってるんだ!」とツイートしてる人たちは、自分がその混みの原因の一人だという自覚がないんだろうか。透明人間かなにかなんだろうか。

(Twitterアカウントは削除済み)

このときの僕は、
1. 自分自身が都内の電車に乗って通勤する乗客のひとりであり
2. "密" をつくりだしている加害者のひとりでもある
という意識をもっていて、それでも通勤せざるをえないからしょうがなく電車に乗っているし、他の乗客にも自分と似たようなそれぞれの事情があるんだろうとむしろ同情していました。

それなのにトレンド上には 「自分だけは特別な事情があるから電車に乗っているけど、他のやつらが電車に乗ってくるのは許さん!」 とでも言わんばかりのツイートが並んでおり、それはさすがにおかしいだろうと思い、上述のツイートにいたったわけであります。

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