Massを介さずDirectに伝える

1980年代の日本で出版された哲学っぽい本を読んでいて、ハイデガーを引いたりドイツ語を使ったりして 「なんでこんな簡単なことをこんなにややこしい言葉で語るんだこの人は」 とイライラしていたのだけれど。

僕はそういう 「その界隈でしか使えない言語を当然のようにしゃべる人」 ってのが嫌いで、表現者として嫌いで。
ただなにかを専門的に極めようと思ったら、どうしてもそういう言葉を使う必要があることもわかっていて。
だからミドルマンと呼ばれるような、専門的言語・観念を日常的な例にわかりやすく翻訳する役割が必要だったりするんだろうけど。

でも少なくとも表現者は 「それが普遍的な言語じゃないこと」 はわきまえろよ、と思う。
まるで 「みんな知ってるでしょ?」 あるいは 「知らないお前が悪い」 くらいの勢いで 「ハイデガーが」 とか 「ヴィトゲンシュタインが」 とか書いてるのを見ると、あなたの村の話は、あなたの村の人たちにしてください。って思う。

こういうのは日常でも感じることで。
僕は派遣的な感じで色んな会社で働くんだけれど 「この場合の優先順位はこうに決まってるだろ!」 「この機械はこう動かすもんだろ!」 みたいなことを言う人がけっこういて。
そんなもんは会社によって違うし、そんな機械ほかで使ってるの見たことないし、あなたの村のルールを全世界のルールだと思わないでくださいよ。と思いつつも 「すみません、へらへら」 と時給をもらう哀しき30代。

そんなことから自分は 「知らないお前が無知なだけだ」 という開き直りをしないと心に決めて生きております。

しかしそうしていると、いわば売れ線狙いのわかりやすい恋愛ソングばかりを出すJ-POPバンドみたいなことになってしまうのであって。
そこは 「俺は俺の道を行くぜ、わかるやつだけわかってくれればいいぜ、いくぜ新曲!"カリフォルニアンイデオロギー"!」 とかやっていきたい気持ちも僕の中にはあって。

こういうネットブログ的な場に文章を書くときは、自分にとってわかりやすい言葉ではなく、どんな人にもわかりやすい言葉で書くように心がけているんだけれど。
しかしそれ自体が傲慢なのかもしれず、僕はある村で生まれ育った1人の個性的個人でしかないので、普遍的に広くなにかを届けようとすること自体がギター1本持って上京するような自意識過剰な身の程知らずムーブなのかもしれないと。

自分の村の言葉を使って、自分の村の人たちとだけコミュニケーションを取り、それ以外の村のことはそれ以外の村の人に任せるという、そういう謙虚さが足りないのかもしれない。

ただ難しいのは今の時代、似た個性の人々が同じ場所に集っているとは限らないことで。
『カリフォルニアンイデオロギー』という楽曲を必要としている人は、日本のあらゆる地域に点在しているはずで。
もしそういう人々が大阪府枚方市に集まっているならそこでだけライブしてればいいけれどそうもいかないわけで。
だからとりあえずひろーく全国に散らばらせて、そういう人々が気づいてくれる可能性を高めるわけだけれど、
しかし難しいことにひろーく全国に散らばらせるためには『カリフォルニアンイデオロギー』という楽曲になにかJ-POP的な恋愛要素を取り入れねばならぬ。

しかしそんなことをしたら曲の肝であるカリフォルニアンイデオロギーの精神が壊れてしまうのであって、
だからA面に『君を愛す2021』なんておべんちゃらソングを入れた上で、B面の『カリフォルニアンイデオロギー』に魂を込めるなんて売り方もあったわけだけれど。

そんな風に、届けたい人に届けるためには、いちどひろーく散らばらせるための万人ウケ要素、いわば客寄せパンダを用意しなければならない。というのが悩みどころであった。

しかし考えてみれば今の時代、インターネットによって人々は自分の個性にあったものだけを得ることができ、なにもCDをつくってレコード屋さんの貴重なスペースに 「売れます!売れますから!」 と置いてもらう必要もなく、ただそれっぽいタグかなんかつけておけばカリフォルニアンイデオロギーに興味ある人は勝手に見に来るわけで。

と思うと『君を愛す2021』なんておべんちゃらソングは必要ないのかもしれないなと思ってきました。時代は変わっとるんじゃねきっと。いつまでもレコード脳のままじゃいけませんねきっと。

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