「共通のPlatform」 とはなにか

僕は神保哲生さんと宮台真司さんの 「マル激」 という有料番組が好きでよく見ていたのですが、そこで宮台真司さんはよく "共通のプラットフォーム" という言葉を使っていました。

これを僕は公共という言葉と似たようなイメージで捉えていました。
みんなが使うもので、それがなければみんな困るから、みんなが気を遣って (たとえば市町村税などを払って) 支えておかなければいけないもの
というイメージです。

そして宮台真司さんは 「日本人には共通のプラットフォーム感覚がない」 と批判しています。
それを僕は公共財についてみんなで維持していこうという意識が足りないという意味で捉えていました。

具体的にいえば、道路や水道管はインフラとして重要です、だから自動車税を使って道路が整備されたり、水道が民間ではなく税金で公共事業として整備されたりしていた。
だけどそういう 「自分たちで自分たちの公共財を支えている」 という意識が日本人には薄くて、税金をただ取られるものだと感じたり、その使いみちを自分たちで決定するという政治意識に欠けている。そういう意味で捉えていました。

しかし、ここ2日ほど鬱っぽくて12時間くらい寝る生活をしていたら、ふと閃きました。
「あれ、共通のプラットフォームっていうのは、もっと深い意味を持ってる言葉なんじゃないか」 と。

それについて書くためには、僕の哲学みたいなものを披瀝せねばなりませぬ。お恥ずかしいですが、表現者のはしくれとして、中二病じみた僕の世界観を全力でお披露目いたします。よければお付き合いくださいませ。


僕は旧TwitterやYahoo!ニュースのコメント欄が嫌いです。

まず匿名アカウントの書き込みの責任感のなさが嫌いだし、たった数行の文章に 「わかるわかる」 と共感したり 「違う!そんなはずない!」 と過剰に反応したりするところが嫌いです。

でも旧Twitterはよく見てしまいます。橋下徹さんとかひろゆきさんとか米山隆一さんとか、物議をかもすご意見番のポストや、そこにぶらさがる無数のリプライを見ていると、世の中の縮図を見ているようなおもしろさがあります。

もっというとそのおもしろさは、昔テレビで 「しゃべり場」 や 「ジェネジャン」 といった若者の議論番組を見ていたときの感覚に似ているような気がします。
そういう番組に出るのは知識のない若者が多くて、ほぼ全員中二病でした。自分の思想が世の中をよくすると本気で信じていて、自分だけが大切な事実に気づいているんだと分不相応に思い込んでいる。

視聴者である僕もそういう中二病患者のひとりで、画面の向こうで意見を堂々と発信している若者にどこか嫉妬していました。
そういう調子に乗った出演者の意見を、他の出演者が論破する場面も醍醐味のひとつで、ルサンチマンが解消されるスカッとした気持ちを味わっていました。

それは現実世界の "意見をいうやつ” と "世間” との関係にも似ていたのかもしれません。
みんな自分の意見をもってるけど、声高に主張すると目の敵になるから我慢してる。
だから 「言いたい」 という気持ちをテレビやネットのご意見番役に重ねて感情移入する。
でも 「出る杭は打たれる」 という世間の法則みたいなものが最後にこないとすっきりしない。

たぶん小説や漫画の定番セオリーみたいなものなんでしょうね。
いま僕がTwitterを見てしまう理由も、
(1) 自分の奥に秘めた意見を表にだしてくれるご意見番に興味を惹かれる
(2) でもそういう人の足元を世間の人たちが全力ですくいにいく
という様式美的な展開に、安心を感じるからなのかもしれません。


ただ僕はやっぱり根がパンクロッカーなので 「世間に抗え!意見を叫べ!」 という生き方の人をかっこいいと思ってしまいます。足元をすくおうとする人々は暗くてじめじめしててみっともないと感じる。だけど自分の中にはその2つの人格が両方いて、いつも脳内でバトルしているような感じです。

こういうのはフロイトなら 「超自我がイドを抑えつけている」 みたいな言い方で説明するでしょうね。僕は一時期フロイトにはまって、自分の中にある2つの面のバランスみたいなものを考えるときに、かなり頼りにしていました。

宮台真司さんを知ったのはその後でした。東大出身なのに 「ケツ舐め」 とか 「クズ」 とか刺激的な言葉を使っているそのキャラクター性に興味をもったのが始まりです。まるでパンクロッカー教授。

宮台さんは日本の “世間” という感覚を、西洋の "共同体" の感覚と分けて考えています。
その思想が僕にとっては革命的で、自分がいままで超自我だと思っていたものは、単なるヒラ目・キョロ目の自己保身で、まったく公共的なものじゃなかったんだと気付かされた気がしました。

……といっても宮台信者以外には意味がわからないと思うので、この辺りの宮台用語をひとつひとつ解説していきます。

まず "共同体” というのはなにかというと 「互いに仲間だと思える人たち」 だといいます。
たとえば、多くの人にとって家族は仲間なので、そこには家族共同体があるといえます。

地域共同体というのもあります。僕が小学生くらいの頃までは町内会があって、祭りの時期とかに町民みんなで集まって準備をしたりしていました。
…といってもほとんどの時間は40畳くらいの広い部屋のそこかしこで、大人は大人・子どもは子どもで集まってぺちゃくちゃ喋ってるだけでしたけど。酒のない大規模飲み会みたいなもんでしたね。

僕はぎりぎりそういう地域共同体の残り香みたいなものを知っていますが、現代の都市化した日本ではほぼ完全に失われてしまっているというのが宮台さんの考え方のようです。

そして地域共同体が失われたことの埋め合わせになったのが会社共同体だと言います。同じ会社に所属する人たち同士の共同体です。
他にも様々な共同体があり、もっとも規模の大きいものでいえば "同じ国に属する国民" というのも共同体です。

そういった共同体の人々の目ばかり気にするのが "ヒラ目キョロ目” です。
キョロ目は 「周りの人の目ばかり気にする」
ヒラ目は 「上司の目ばかり気にする」
という意味だそうです。

僕は周りの人に "調子に乗ったやつだ” と思われるのが嫌で、自分の意見を主張しないようにするキョロ目でした。
そしてそういう抑圧をフロイトの "超自我” と重ね合わせて、奥に秘めた自分の欲望 "イド” をパンクロックを通じて解放したり表現したりしようともしました。

でもそういうのは単なる逆張りみたいなもので、周りの人々に称賛されることをやるか、周りの人々が眉をひそめることをやるかの違いであって、結局のところ僕の行動の基準は "周りの人にどう見えるか” だったんじゃないかと思うんです。

当時の僕はそれを "世間の抑圧に抗って自分の意見を主張している” と思い込んでいたけど、やってることはただ "親がウザいから親が言うのと真逆のことをする” みたいな、ただの反抗期、まさに厨二病患者の王道を言っていただけだったんじゃないかと。

じゃあどうしたらいいんだ!!ってなりますよね。自分の意見ってなんなんだ!!って。
それでいろんな本を読みました。サルトルとか養老孟司とかデカルトとかヒュームとか。ほんとうの自分とはなんぞや?という迷宮にはまって聖書や仏典や脳科学の本なんかも読みました。

最終的に、ひとつの指針になったのは西洋哲学の "Virtue” という観念でした。
これは日本語だと "徳” と訳されますが、僕はそのまま "ヴァーチュー” と呼んだほうがいいと思ってます。
なぜなら徳という観念は中国思想からのもので、いままで書いてきた "世間” の考え方に似ていると思うからです。英語に訳すならMoralに近いんじゃないかと思います。西洋思想のVirtueはそれとはぜんぜん違ったものに思えます。

この違いを宮台さんは "道徳” と "倫理” の違いで説明しています
道徳は、他人にどう見えるかを基準にする外圧的な動機で、
倫理は、他人にどう思われてもやる!という内発的な動機だといいます。
(この分け方はちょっと単純化しすぎかもしれませんが)

つまり僕は思春期の頃は、
(1) 道徳 = 周りの目を気にして意見を主張しなかった
(2) 反道徳 = 周りの人がしないような行動をあえてとっていた
というどちらにしても道徳から抜け出せない世界の中にいました。

でも今は、
(3) 倫理 = 周りがどうでも関係なく自分を貫く
という第三の道を模索しているところだということです。
34歳にもなってなにを自分探ししているんだという感じですが。
(↑こういう自己ツッコミがまさに周りの目を気にするキョロ目っぽい)

そして宮台さんは、日本人は自分の属する小さな共同体の目ばかりを気にして、その外側にでることができない。
だから自分以外のたくさんの共同体が乗っている共通のプラットフォームに関心がもてない。
そうして "世間" の目を気にした道徳的なふるまいしかできず、それを超えるような倫理的なふるまいができないのだ。
といったことを言っている……と僕は思うのです。(解釈にあまり自信がないですが)


そこまで説明した上で、最初の話に戻りたいと思います。
僕が 「共通のプラットフォーム」 という言葉に感じた深さというのを。

僕はそれをみんなで支える公共財のようなものと捉えていました。
それはどちらかというと道徳っぽいものです。
「みんなにとって大事だから、ひとりの意見ではなく、みんなの意見で決めていこう」 という。
具体的にはインフラみたいな、みんなの利害に関わる共通の土台のようなものと。

でももっと違う見方をすることができるんじゃないかと思いました。
それは 「みんなの意見を交流させるための空間 = プラットフォーム」 という考え方です。

駅から電車は
思い思いの方向にむかって進んでいきます
まるで人々が
人生を思い思いの目的に向かって歩んでいくように

そんな中で立ち止まって
他の電車と交流する場所がプラットフォームです
そこで乗客同士を交換して
また思い思いの方向に進んでいきます

そういうことができる場という比喩でPlatformという言葉を使えるんじゃないか。
つまり 「みんなが常に乗っている土台」 みたいなものとしてではなく、「別々のところにいる人々が、一時的に共通するための空間」 という意味です。

その考え方の転換は道徳から倫理への移行と似たようなもので。
結局のところ 「人はみんな違う」 ということを受け入れた上で共同体を考えるためには、Platformを土台のようなものではなく、駅舎のような機能的なものとして捉える考え方が必須なんじゃないかと感じたわけです。

それでいうと旧Twitterはもはや駅舎というよりそこを走る電車のひとつで、その他のSNSとかネット以外の共同体とかとTwitter界をつなげて交流させるような仕組みこそが、本当の意味での "プラットフォーム" なんじゃないかとも思った。2種類の道徳が支配する空間から、倫理で走るそれぞれの人々を暫時的につなげる空間という考え方への転換。

そんな風に僕の頭の中では強烈なアハ体験を生む大発見でした。
言葉の中から、言葉以上のなにかを引き出して、位置づけることに成功した感触でした。
……でももしかして寝すぎて頭が変になっているだけなのでしょうか。こわい。

まぁ本当に個人的な感覚の話でしたが、お読みいただいてありがとうございました。
もうちょっとうまく書ければよかったんですが…。
なにかしら汲みとっていただけたなら幸いです。


(記事中、特定の本から引用した部分などは 「。」 にソースへのリンクを貼っています)

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