僕らは単なるニュース消費者

SNS上で “情報発信” した気になってる人たち (僕も含めて) ってさ、基本的にニュース消費者でしかないんだなって思う。ただ出てきた事実を見て、それについて感想とか解釈を言ってるだけ。小説を読んで感想を言うのとか、映画を見て感想を言うのとかと、まったく同じ。

本当は自分自身が 「ニュースの発信者」 にならないといけないんだと思う。自分が、自分の立場から見える光景の中で、社会Publicに共有すべきものを見つけて、それをわかりやすく議論の俎上にあげるようなこと。

でも社会Publicってのには段階があって 「全世界」 から 「国内」 から 「社内」 「町内」 「部内」 とかまで。それぞれの場所で、それぞれの事柄が共有されるべきで。

Twitterみたいな場は大半がオープンなコミュニティだから 「多くの場所で人々が関心を持った議題が、結果的に全体に広がっていく」 という、町内・部内を国内・全世界にシームレスseamlessにつなげるしくみがあるのがおもしろいところで。

町内だよりとか社内報とかってのは基本的にクローズドだったり枚数が限られてたりで、それ以上に広がる余地のないものだけど、ネット上では複製や再配布が簡単すぎるからいくらでも広がる。

信じられないだろうけど、30年前にこれと同じことをしようと思ったら、町内報を数百万枚コピーして、車かなんかで移動しながらみんなに渡していくしかなかったんですよ。

だから社会学者とか政治学者とかはいろんなかたちでネットに民主主義の可能性を感じたんだろうし、大小のコミュニティが社会全体Publicシームレスseamlessにつながっていく絵っていうのは、ヨーロッパ民主主義の黎明期に語られてたそれこそルソーRousseauとかホッブズHobbsとかの思想の体現って感じにも思えた。

それが実際問題どうなっているかっていうと、僕には現状がナショナリズムNationalismの快感に乗っ取られているような状態に見える。

世の中にはいろんな人がいて、部長は日本に数十万人はいるだろうし、町内会長も数十万人いる。社内報とか町内だよりみたいなニュースの発信源にいるのはだいたいこういう人たちで、Twitterみたいな世界はそういう小規模なものが社会Publicに広がるものになる可能性を秘めている。

そうすると従来のTVや新聞などの報道はお株を奪われるかたちにもなる。今までメディアはわざわざその町内とか社内とかまでいって取材をし、「クローズドな紙のニュース」 を見つけてきて俎上にあげ、それにメスを入れていくような役割をもっていたわけですから。一応。

そういう変化を僕は良い変化だと思っていて、メディアがなんらかの理由で取り上げない問題でもSNSによって表に出てくるようになってきた。そうして町内とか社内で起こっているその人たちだけじゃ解決できない問題も、社会Publicに共有されて解決される可能性が広がった。

ただそこで新しく生じた問題 (おそらくネット民主主義を期待した人たちが想定していなかった問題) は、人々の中には 「問題解決ではなくNation社会Publicとつながること自体を目的にしている人」 が一部存在するということで。

これは友達が多い人とか、ちゃんと役職や立場を持っている人にはわからない感覚でしょうけど、拠り所になるコミュニティがなにもない人ってのは、常に 「社会Publicと関係していたい」 っていう欲求を感じ続けているんですよ。これがイギリスが大臣まで置いて取りくんでる "孤独問題” の本質だと思ってます。

ちなみにソースは僕の自己分析です。僕は自分がそういった拠り所 (学校やバンド活動や仕事上の立場) を持っていた時期と持っていなかった時期の日記なんかを読み返して分析しながら、そのような傾向が人間一般にあるんじゃないかと考えているのです。

いちおう僕の中では理屈として筋が通る話かなと思っていて、だって人間ってのは古来から群れで生活してきた動物なんだから、誰とも生活を共有しない孤独の状態ってのは生存に関わる異常事態だったはずだと思うんです。

もしそうなのであれば、孤独な環境に置かれた人間は、まるで海水魚が淡水に入れられたときのように息苦しさやストレスを感じ、その状況から抜け出そうと、つまり社会Publicという大海原に向かっていこうとするのが自然なことなんじゃないかなと。

たぶんこれまで人々は町内 (地域社会) とか部内 (企業体) とかの中でその欲求を満たしてきました。そういった社会的生活に馴染めなかった人も親兄妹 (家族) という最小単位のコミュニティに属していました。

しかし現代では家族も会社も町内も結びつきは希薄で、お互いが欠かせない役割を担いつつ継続的なコミュニケーションが続く場ではなくなってしまってきています。僕はその気楽さが好きなんだと自ら希薄さを選んできた人間ですが、そこには弊害も大きいってことを身を持って実感しつつあります。

つまり常にうっすらと不安や息苦しさを感じ続けなければいけないという、真綿で首を絞められるようなストレスです。これは “属しているもの" があったときには感じなかったものだと自己分析しているわけです。

そしてそういった人間の逃げ道になるのがナショナリズムNationalismなんじゃないかと思っています。これは 「自分は国の一員であり、国家的な役割を担っている」 という自覚を持つことによって、揺るがない “属している感” を獲得するためのものなんじゃないかと。

ただそうであれば僕はもっとナショナリストNationalistになっているはずなので、この分析は間違っているのかもしれません。僕の印象では日本のナショナリストNationalistっぽい人たちはむしろ大家族や企業体の中でもともと立場を持っている人たちだし、属すアテがない人たちの受け皿としてナショナリズムNationalismがあるって発想は僕の直感でしかない。

まぁでもここまで書いちゃったので最後まで話を続けることにしますと、SNS上で起こっているのはそういう 「自分は国に属していて、国家的な役割を担っている」 と思い込みたがる人たちのエネルギーの発露なんじゃないかというのが僕の感じたことです。

つまり昔の人々は、家族に対して口うるさく説教したり、地域の安全を守る活動に参加したり、会社に滅私奉公して手柄をたてたりしてたわけですが、そういった身近なとこでの "属してる感” が味わえなくなった昨今では、ネット上のニュースに 「こんなことは許せない!こうすべきだ!」 と反応することによって、国という巨大で抽象的なコミュニティの中での "属してる感” を得ようとしてるんじゃないかと。

たとえば、悪いやつを徹底的に晒しあげて叩くネットリンチとか、自粛警察とか私人逮捕系ユーチューバーとか、そういう現象がなぜ発生するのか考えると、なにかそういう "みんなでなにかをやっている感” だけを求めている人たちの存在が透けて見える気がするんです。

そういう人たちが求めているのは本当は問題解決とか再発防止とかではなく 「町内のみんなでゴミ拾いをするとなんだか気持ちがいいね」 みたいな、そういう “群れで生きる動物として感じる安心感” なんじゃないかと思うんですよ。ゴミが無くなっちゃったらむしろ困るわけです。なんなら誰かに定期的にゴミをばらまいてほしい。そうすればみんなでずっと一緒になにかをやれるから。

こう考えると、僕が最初にだしたナショナリズムNationalism っていう見方はやっぱり間違っていたかもしれないですね。Nationってものはこの場合はあまり関係なくて、動物的な群れの感覚というか、そういうものを渇望してしまう人たちについての話。

そして他人事みたいに書いたけど、僕自身そういう人だからこそ、こんな風に自己分析として書いているわけです。バイトテロとか不倫騒動とかが起こるとワクワクするじゃないですか。なにか言いたくなるじゃないですか。トレンド見たくなるじゃないですか。コロナもそうだし安倍元首相の銃殺事件だってそうですよ。国のことを良くしたいと思ってる人間がコロナでワクワクできるわけがないんですよ、安倍晋三さん銃殺で盛り上がれるわけがないんですよ。沈み込んで無力感に打ちひしがれるはずですよ。

だから僕みたいにニュースを孤独を紛らわすために消費する人たちは、ナショナリストNationalistとも呼べないただのつながりに飢えた寂しい人です。社会問題の解決に関心があるんじゃなくて、みんなでなにかをしているその輪の中に入りたがっているだけです。時にはつながりを維持するために問題解決を邪魔することすらあります。迷惑な存在なんです。許してください。すみません。

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