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『からこといのち通信 №24』6月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)2022/5/28 発行

『からこといのち通信 №24』6月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)2022/5/28 発行

寝覚めの布団の中で『自己の突破と魂の解放』の言葉が浮かんだ。ここのところレッスンが出来ていない。仕方ないので、毎日のようにカフェに行っては、ノートパソコンを前にああでもないこうでもないと、考えを巡らせている。その一つが、私自身が「何をやっているのか?」一般向けのレッスンの説明である。

レッスン参加者からよく言われるのが「友人に紹介したいのだが、どう説明して良いか困る!」と。ところがこれは、私にとってもレッスンを始めたころから続く難問なのだ。

いまの時代は、言葉にならない(説明の付かない)物事は無いに等しい、と受け取られてしまう。ネットは説明の世界である。先ず講座や商品の説明があり、実際の体験や利用は後付けである。

私のレッスン(教室)では「先ず体験(気付き・事実)が在って、説明や理解は後から付いてくる」のを大切にしている。「レッスンに臨んで、既成の専門知識や理解、技能を持ち込まずに、直接に課題や目の前の相手に向かってほしい」とも考える。そうでなければ、既得の思い込みが邪魔して新たな「自己」の発見など成り立ち得ない。

『自己の突破』とは、私はこういうモノであるという、既得の自己像(自意識・常識)の縛りを離れ(突破し)て、無前提に自己を眺めることだ。自意識という色眼鏡を外して、直接に自己と出会う。自己の新たな可能性を発見することである。未知への冒険。

『魂の解放』とは、自我による、自己と魂(いのち)の分断を解き、自己が魂(いのち)そのものであるという関係を回復し体感することである。他人事としての魂ではなくて、自己=魂の関係を生きることだ。そしてそこに体験される自由を識ることだ。

言葉以前、説明や理解の届かぬところに在る(住まう・生きる)自己に出会うことなのだ。それは、言葉にならない(説明の付かない)世界に足を踏みいれて、そこに生きる者たちの声なき声に耳を傾けることでもある。

昨今は「小さな声を聴く」という言葉が流行りのようだが、言葉以前、言葉にならない声を聴くには、常識という、自分自身が無自覚に身に纏ったフィルター(鎧)を外して、無防備な自己(魂)を晒して相手に向かわなければならない。そうしなければ見えない・聞こえない、声・言葉がある。

本当にレッスンの説明は大変だ。レッスンでは真に見る力・聞く力を回復することを目指す。ところが、常識的に身に付けた見聞きする力で、日々の生活を不自由なく過ごしている人達には、そもそも必要のないレッスンだ。

『自己の突破と魂の解放』という言葉が「からだとことばといのちのレッスン」の意味内容を的確に現していると私は思うのだが、、。

そしてこのことは、当初より私自身の一生の課題でもあるようだ。これらの説明はレッスンを体験してくれた人には、なんとなく分かって貰えると思うが、、。『自己の突破と魂の解放』の実践探求は、情熱と深い喜びとを、私に繰り返し与えてくれている。

瀬戸嶋 充 ばん

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【1】 レッスン生活40周年記念(その8)
【2】 あまねとばんの交換日記
【3】 レッスンのご案内
【4】 あとがき
【5】 バックナンバー( ばん|note ) 

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【1】 瀬戸嶋レッスン40周年記念(その8)

90年台、竹内敏晴・野口三千三の実践を理解しようと、その手掛かりを求めて、私は禅仏教に興味を広げていった。

禅学者鈴木大拙さんの全著作(全32巻)を読み通し、膨大な知識の蓄積の土台には「からだ」(=坐禅)が常に活きてあることを確認した。一冊一冊の本の中に大拙さんの「いのち」(=禅)が活きて飛び跳ねている。

全集5巻目に入ったころ、2000年台の始めには、禅の見性(悟り)も体験した。竹内・野口の語る「からだ」の意味が、朧ながらも見えてきた。それは「肉体」(解剖学的身体=物)ではなかった。心身二元、近代科学によって心と体に分けられ、解釈されたそれではなかった。

野口は「非意識主体説」を唱え、竹内は「意志を信じない」といった。意識を、私たちが生きていく上での主役とは見ない。『私たちに生を促すのは「からだ」である』という時の「からだ」とは、般若心経の言葉を借りれば「空」である。禅仏教では「無」と呼ぶ。チベット仏教では身体を「粗大身」(通常見聞きする肉体)と「微細身」に分けて観ているそうだが、平仮名の「からだ」は、この「微細心」にあたる。「からだ」の「から」は空っぽの「から」だ。

といっても、私たちの意識では「からだ」を直接に観ることは叶わない。意識の限定を一度外して見なければ見えない。ここがややっこしい。なにせ私たちは意識で分からないものは無いと思い込んでいる。

禅では坐禅の恰好をして、息の数をかぞえる(数息観)。息を吐いて「一」、息を吸って「とぉ」。息を吐いて「二ぃ」、息を吸って「とぉ」。。。。。息を吐いて「十」、息を吸って「ぉぉ」。また「いち」に戻って、、、。これを繰り返す。お腹で数を数えるのだ。それを一日中(休憩はある)繰り返す。

3日間くらいやると、もうほとんど病気である。脳はまともな活動を止める。朦朧として考えは断片化する。もう止めて帰ろうと思うが、引くに引けない(強制では無い)。意識で自己を操ることが出来なくなる。仕方がないのでまた息を数える。

「からだ」に変化がやって来る。自我が凍って砕けてなくなる。あんなに抵抗していた自我がなくなり「からだ」は流れて消えて、世界と自我の区別がなくなる(初心である、この先もあることだろう)。こうやって獲得する「見」がある。これを「見性」と呼ぶ。「悟り」である。

ここを通らないと見えてこないものが在る。常識的な「見」の外に広がる「見性」の世界。見性の眼差しに映る世界の方から「見」を眺めると、私たちがどれだけ相対的な世界に身を置いているかが分かってくる。そこに自由はこれっぽっちも無い。

竹内敏晴の「からだ」とは何か?私は竹内の怒りを浴びたことがある。竹内の肩に手を置いた瞬間、光の帯が手を伝わってきた。私の中に入り、私という存在の光を真っ二つに切り裂いた。真っ暗な空間に私はその裂け目を露わに立っていた。

野口三千三はもっと簡単だ。目を閉じ、「からだ」の力を抜いていくと、「からだ」は空間に溶けて行く。そのままぶら下げて、そのまま起きて眼を開く。私の「からだ」は全く新しい「からだ」だ。

これらの共通点は「からだ」が「光」であることだ。私には、このことを語ることが必要になってきているようだ。正直なところ怖いのであるが、私のレッスンのベースがここに在ることを語らねば、この先に行けないような気がしている。

声出しのとき、私はその人の横に立つ。声を聴いていると、私とその人との距離が消える。光は一つになって、声になって出て行こうとするのだが、出口を失っている。彼の身体を、光の「からだ」の側へと移そうと、真似をしたり努力を止めさせたり。スッタモンダの末に声が外部に響きだす。

声と「からだ」は一つである。言葉も。ただし「ことば」は、「からだ」が完全に光の状態になっていないと成り立つことが難しい。解放の次元が違うのである。

いずれにせよ「からだ」は、その外皮(「こと」の「は」)をいくら丹念になぞっても成立はしない。言葉の奥に潜って、光を発するところに立って語らねばならないのだ。言葉が彩りを持って闇の側から浮かび上がっては消えていく。身体の実感は消える。それが言葉だ。

意識(或いは意志)が、否定されるところに「ことば」は姿を現す。それはこれからの可能性かも知れない。

カミングアウトだ。これらのことはずっと私の中にあった。墓に持って帰るものと信じていたが、そうではないらしい。もっとも核心に在るものを表に出さずにおいては、全体が沈んだままなのだろう。でもこんなことを書いては、もう誰も仕事を回してくれないかも。それもまた良しか。

瀬戸嶋 充 ばん

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【2】あまねとばんの交換日記

あまねさんは、美大出身で油絵専攻、インタビューをライフワークとして、現在は子育てに奮闘中。
( あまねさんの最近の記事は「あそどっぐ インタビュー」 https://note.com/kobagazin/m/m52dc197ffbaf

※ 交換日記、復活です。

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2022/05/18

あまねちゃん

「ことばの成り立ち」についてです。

例えば、講演で演者が立派な話をしている。ところが観客のほとんどが寝こけている。マイクが使えていない。だから言葉が聞こえていない。マイクを口元に固定すればいいのが、話に夢中になると、マイクが口元を離れる。音声が安定しないので何を言っているか分からない。聞こうと努力をしているが、聞こえていない。やがてあきらめて聞こえているふりになる。長く続けば、みんな寝こけてしまう。

演者はといえば、用意してきた文章をメモを見ながら話している。自信たっぷりで観客の寝こける姿は眼に入っていない。おそらく彼の眼には、静かに話を聞く聴衆の姿が映っているのだ。否、見えていないかも知れない。彼は手元のメモに注意をあて、それを読むことに、その書かれた内容に注意を向けている。彼が全力でまとめた文章だろう。だから、周りは静かであれば良いのだ。話を聞いているかどうかは、どうでも好い。自分のメモを読む声が自分に聞こえていればよい。そのために周りの声は騒音である。マイクの音は自分の声を聴く邪魔になる。話に夢中になれば、マイクは口元を離れる。観客は心地よい眠りに誘われる。

これはある大学の教授の話である。言葉に向かう態度が典型的である。良く纏められてた文章が在る。それを読んでその出来を考える。良い文章である。それを正確に言葉にしていく。その文章が自分の中に響くのが心地いい。だからみんなもそれを静かに聞いている、、、と思っている。実は言葉は、文章と自分との響き合いで、そこにいる聴衆は文章を見ていない。或いは見えていない。

彼にとっては、それが語ることなのだ。観客は一時間近い時間を空費している。私はそれが語ることなのだろうかと思う。

彼にとっては、素晴らしい文章を口にして読むことが、語ることなのだろう。完成された文章の開示である。そしてそこに立ち会う聴衆も、一緒に文章を聞く。文章を中心にそれを聞く人が集中する。実は文章を語る主体がそこにはいない。対話は成り立っていないのだ。対話というのは異なる他者が、互いの立場から言葉を重ねる。ところがここでは言葉が、壇上に置かれて、みんなを見下ろしている。それを代表が代読して見せる。読んだ人には責任は無いのである。もちろん聞く人にも。

なおメモと言ったが、文章が頭に入っていても、それはメモである。自分の脳天に張り付けたメモである。

さておき、これが講演と言えるのだろうか?たまたまマイクの問題があって、講演とは何かということに話が弾んだが、そもそも講演というより、自己主張の場ではないだろうか?まるでご神託を告げるように、絶対のお言葉を告げるような。

「私はこう思いますが、あなたはどう思いますか?」というのが、講演であり、上記の講演からは「あなたはどう思いますか?」という観点が消えている。人間はどんなに立派だという人の意見でも、それが走り出した途端にそれを語った人の手を離れて、暴走するものです。人の考えとはそういうモノで、それを防ぐために反対意見というのが必要なのです。両方知ったうえで、いまは片方を選ぶというのが必要なのでしょう。

そういえばそんな話をする人が、何人かいたように思える。絶対矛盾的自己同一か?

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2022/05/21

ばんさん

あや〜、分かりますよ。
ばんさんの日記読んでて強烈に思い出したエピソードがあるんですが、
オトナの事情で名指しはマズいとおもうので、すこしぼやかしてかくと・・・

「わたしは、この世の中では、とてもじゃないけど生きていけないな・・・」
と思っていた頃(笑)、とある宗教的コミューンの本を読みました。
活字ではおおむね問題がないし、共感するところも多い。でも実態はどうなんじゃろか・・・?
と思い、現地へ訪れました。
で、幹部がでてくるなり、パンフレットに印刷された文字を読み上げはじめた(けっこう長い)。
「いやいや活字は本で十分だし、せっかく生身のあなたが出てきてくれてるのに、なんで読めば分かるものわざわざ音読すんねん」
これはお互いの人生をムダにしていると思い、
「あのぉ〜、ここに書いてある、ここの部分なんですけど、
冒頭で上下関係がないって謳ってるのに、やっぱり構造的にはありますよね、上下関係?」

とまあ、このエピソードを、ばんさんの日記読んでてまずいちばんに思い出しました。
ばんさんの言葉を借りれば、出会うなりご神託を告げられた、と言えると思います。

そんなこんなで、その幹部さんと長々話をしたのですが、
あまね「どう見ても牧場の羊(住民)と、牧場主(幹部)で立場が分かれていると思う。住民はそれに自覚があるんだろうか?」
幹部「なくてもある程度OKだと思ってる。住民の意見は聞き入れるけど」
あまね「では、幹部の話し合いへ、住民が意見する機会なり仕組みはあるのか?」
幹部「ない。あれば別途聞く」
あまね「すこし角度を変えます。この牧場(コミューン)から出て行こうとすると、無一文になるのでとても難しいはず。実質、このコミューンはネズミ返し的。さっき、牧場の羊と、牧場主で立場が分かれていることを、住民は知らないなら知らないでよい、とあなたは言った。住民はリスクを知らないまま入村することになるということでしょう?すごくヤバい感じがする」

という具合で、その幹部の人の受け答えには、
ばんさんの言う「私(幹部)はこう思いますが、あなた(住民)はどう思いますか?」が欠如していたので、
わたしはそのコミューンをまったく信頼できませんでした。

上から下へ、決めたことを降ろすという方法では、どの宗教もうまくいかなくなっているようなので、
そこに対する反省や学習が、そのコミューンにはあるのかしら?と思ったんですが、
フタを開ければ教義の内容をブラッシュアップすることしか考えてなくって、教義の暴走をみつめる視点が欠けているように、私には思えました。
かなりのリスクを負ってコミューンを運営しているのだろうし、
幹部はそこそこ学歴もあるようで、問題意識も強い。
だからこそ、そこのところ、私なんかよりはるかに考えているだろうと期待したのに・・・と、
「社会どころか、人間の集まりにすら、自分は所属できないのかもしれない」と
絶望をあらたにして(笑)、帰路につきました。
生きていく方法が分からなかった(今も分かんないっちゃ分かりませんが)、甘酸っぱい(?)心細さを思い出しますね・・・。

「上記の講演からは「あなたはどう思いますか?」という観点が消えている。人間はどんなに立派だという人の意見でも、それが走り出した途端にそれを語った人の手を離れて、暴走するものです。人の考えとはそういうモノで、それを防ぐために反対意見というのが必要なのです。両方知ったうえで、いまは片方を選ぶというのが必要なのでしょう。」
めーちゃめちゃだいじなお話ですね・・・
"あなたの言っていることも分かります。ですが、さしあたって、今の自分はこれを選ぶより仕方がないのです"
以上のことって、本当は言えないと思うんですけど、
あなたとわたしの両極を見ようともしないまま、
ついつい出てきちゃうのが「わたしは正しい」って言葉なんでしょうね・・・。

ただただ同意のお返事となりました。まあたまにはこんなのもアリか。

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と言うことで復活です。

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【3】 レッスンのご案内

● 琵琶湖和邇浜夏の合宿開催
2022年7月16日(土)~18日(月)
https://ningen-engeki.jimdo.com/2022%E5%B9%B4%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96%E5%A4%8F%E5%90%88%E5%AE%BF-7-16-7-18/
前回朗読劇『鹿踊りのはじまり』を YouTube https://youtu.be/-rm3YAVdIoQでご覧になれます。

● ワークショップ・合宿などのイベントのご案内は Facebookページ https://www.facebook.com/SensibilityMovement に「いいね!」して頂ければ、詳細が出来次第、FB通知でご案内します。

● オンライン・レッスン『野口体操を楽しむ』のご案内は、
https://ningen-engeki.jimdo.com/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%95%99%E5%AE%A4/

● オンライン・プライベート・セッション開始
http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-370.html

●「出会いのレッスン☆ラジオ」https://www.youtube.com/playlist?list=PLnDMDlLE0m1LaDrvijAQA8RwzaiNAAdpZ
番組表は、https://ningen-engeki.jimdo.com/

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【4】 あとがき
「あとがき」というのはあまりよくないかも知れない。
「おあまり」とか如何なものか

【4】 おあまり

同性愛者のカミングアウトのようなものか?それを暴露する前と後では、自分の人生が全く違うものに見えてくる。私の場合は「ひかり」とみること。光の体験というか、自身の身近にあった体験である。これを口にすることで、自分がもうまともに見られない。きちがいか少なくとも常識の範囲から逸脱する存在になる。ふつうに常識の世界に安住して生きていたかったのだけれど、それが叶わなくなる。そんな予感に包まれながら、踏み出してみる。ひかりの世界に。

ひかりの世界から見れば一言で済ませられる。レッスン中の野口は、誰よりも明るく輝いていた。教室の若者に較べて「ひかり」の量が違った。竹内の「ひかり」は私を乗せて、私の「ひかり」へと私を運んだ。舞台の上で皆が輝いていた。竹内の話しを聞くとき、みんなの表情も輝いていた。そこには誰が一番かという競争は無かった。一面が「ひかり」という言葉で輝いている。

そんな言葉で十分だろう。竹内や野口を表すには。小難しい説明は不要となる。

さあ何が始まるか、、、また来月。

● 伊豆川奈合宿スタッフの大澤さんが「からだとことばといのちのレッスン」PVを作ってくれました。楽しく仕上がっています。ぜひご覧ください。
https://youtu.be/9ro2xpaGYnc

● レッスンに参加したいけれど、どうも内容の説明が分かりづらい。との問い合わせを受けました。レッスンの資料をホームページにまとめてみました。ご覧ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B9%E3%83%B3%E3%81%A8%EF%BD%97%EF%BD%93%E3%81%AE%E6%84%9F%E6%83%B3%E3%81%A8%E5%8B%95%E7%94%BB/

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● 私、瀬戸嶋 並びに 人間と演劇研究所『からだとことばといのちのレッスン教室』の 活動と情報は、ホームページで告知しています。
レッスンへ参加頂く際は、ホームページをご確認ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/

● 問合せ・申し込みは、メール karadazerohonpo@gmail.com 又は 電話 090-9019-7547 へご連絡ください。

     人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充 ばん     

『からこといのち通信 №24』6月号 2022/5/28 発行

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