『からこといのち通信 №4』10月号
『からこといのち通信 №4』10月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)
コロナ騒動でStayHomeが長く続いています。4月から現在9月中旬。毎月楽しみだった関西行きが中止になって6か月。関西定例会が月めぐりの目印になっていたのが今では良く分かります。大阪・京都に行ってひと月を終え、また新たな一か月が始まる。そんなリズムに乗って、ここ4年ほど月日の移り変わりを楽しんでいたのです。
「からだとことばといのちのレッスン」は場と空間そしてそこに集う人たちの「からだ」と「ことば」の共有・共感と交流をベースにして進められます。「三密」無しには成り立たないのです。ZOOMにて野口体操の教室も開いてみましたが、リアルでなければ出来ないことがどうしてもあります。もう一歩からだの関りを踏み込みたい(例えば「逆立ち」)と思っても、カメラを抜けてその人のところに飛んで行くことが出来ない。
現時点のリアルレッスン開催は、無事の帰還を願いながらコロナ騒ぎの中に身を投げ入れ、無事に帰り着けば、ホッ!と胸をなでおろす。もしコロナにかかれば、世間からの攻撃を浴びる可能性があることを考えに入れなければならない。なぜか人は、パニックになると自分の安心を守るために他者の攻撃に向かってしまう。コロナより人が怖い!という感じです。
それでも動き出したくてウズウズしている。もう、じっとしているのが耐え切れません。動いていきますね!
この機会、地方の方とも交流を繋いでいきたいと思っています。先ずはZOOMから、行く行くはワークショップ・合宿でお目にかかりたいものです。お声がかかれば私はどちらへでも飛んでいきます。よろしくお願いします。
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【1】 「こえ」への影響
【2】 「坐」の時間
【3】 リアルレッスン( ワンディ10/4・10/25、伊豆温泉合宿11/7~8 )
【4】 オンラインレッスン開催予定
【5】 ソマティック心理学協会イベントに参加
【6】 あとがき
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【1】 「こえ」への影響
Stayhomeの影響が「こえ」に出ていました。呼吸筋というのは筋肉です。筋肉は使わないと衰えて行きます。入院していると、歩くことが無いので短期間に足腰の筋肉が落ちてガリガリになった体験をした人は多いと思います。
生活や外出・通勤等の中で動き回ることで、特別なトレーニングをしなくとも姿勢や運動を維持するための筋肉は鍛えられているのです。
呼吸筋も同じで、声を出すことで、呼吸筋や発声のための筋肉は使われてその力を維持されます。ところがStayhomeではその機会を奪われてしまう。人に合わずにじっとスマホとにらめっこを続けている。声を出してもほんの小さなつぶやきで済んでしまう。気がつけば一日誰とも会話をしていない、なんてこともあります。呼吸筋は委縮してしまい、知らないうちに十分な発声が出来なくなってしまう。
参加してくれた人たちの声を聞いていると、声の力が落ちている。当人は意識していなかったことなのでしょうが、声を出しているのを聞いていると、こちらに響いてくる力が弱まっています。『あれ!この人の「こえ」はこんなだったかな?』『以前はもっと声が楽に出ていたはずだ!』『レッスンのやり方に何か問題があるのだろうか?』私自身が戸惑っていました。
一般に「こえ」は考え(思考)や心の内容(言葉)を伝える手段として見られることが多いのですが、実際には響き合いという大事な働きがあります。感情(心の震えや動き)は声の響きや息づかいを通じて、聞く人の身体に共感(=共鳴)を起こします。前者を「理解」のための「声」、後者を「共感」の「声」と分けてみるのが考えやすいかもしれません。
呼吸筋が委縮し声の力が落ちて行くというのは、この後者、「共感」のための「声」の力が衰弱してしまうことです。理屈(外的理解)ではない、心の響き合い(内的共感)という人と人との大切な交流が消えてしまう。
コロナ騒動の落とした影響に、私は素朴に恐ろしさを感じています。「からだとことばといのちのレッスン」の存在意義があるとすれば、ここのところかと思います。理屈や知識以前のところで人と人とが互いに生かし合う「こえ」、そして「ことば」(ものがたり)の発見或いは再生です。
おそらく、人と人との関係が理屈に呑み込まれていって、どんどん息苦しいものとなって行ってしまうことでしょう。コミュニケーションは自ずとネットやAIが主流になっていく。その中で共感=生き物としての「からだ」と「ことば」を取り戻して行こうというのが、私の願いです。
こんな夢のような話に共感あるいはご理解いただける方がいらっしゃれば、ぜひともレッスン教室への参加ご協力を頂きたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。
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【2】 「坐」の時間
2020年夏の合宿参加者を中心に、夜のオンライン坐禅会が始まりました。メンバーの一人に禅宗のお坊さんがいて、リーダーを引き受けてくれました。私も一緒に坐らせてもらっているのですが、琵琶湖合宿で朗読上演を共にした仲間。皆で坐っていると安心感を感じます。長く続いて欲しいと思います。直ぐに成果や効果が出るものではないけれど、一回坐るごとに自身の井戸中から泉水を組みだしているようなものです。自然と息が深くなり集中力が深まってくる。参考になればと私の「坐」について書いて見ました。
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友人が主宰していた『マインドフルネス実践会』に月二回、3年間ほど参加していたことがある。マインドフルネス瞑想が流行する直前。もう8年ほど前のことになる。私は安坐を組んで静かに坐ることの出来る時間が欲しくて、友人に頼んで会に参加させてもらった。
マインドフルネスのレクチャーと体験実習の後に、30分程度の瞑想の時間が用意されている。私はマインドフルネスにも瞑想にも興味はないけれどこの30分間、静かに坐る時間が欲しいので参加するという旨を、主宰する友人に断っての参加だった。
終了後の飲み会が楽しみだったおかげでもあるが、文京シビックセンターへと、おおよそ2週にいっぺん3年間(≒72回)、自己流の坐禅をやりに通ったことになる。「結跏趺坐(あぐら)を組んで自分の呼吸に注意を向ける」それだけが当時、私自身の課題であった。いま思えば飽きもせずによくやったものだと感心する。
当時私は「坐」の時間(と自分では呼んでいた)を、定点観測と考えていた。二週ごとに生活の流れに句読点を打つような感じだった。放っておけばズルズルと時間が流れ去ってしまうところを、二週にいっぺん区切りをつけて自分の定点=「からだ」(=坐)に戻る。目まぐるしく通り過ぎてしまう意識の流れにブレーキを掛けて、一旦「からだ」(=呼吸)へと意識を引き戻す。日常を離れてマイルストーンを置くとも言っていた。
自分の仕事(レッスン)となると集まる人やWSの内容に気を遣って、自分のことは二の次だ。友人の実践会でならば、私は誰にも気を遣うことなく自分だけのために、自分の呼吸(=いき)へと注意をやることが出来る。リセットタイムと言ってしまえばそれまでかも知れないが、何ものにも気を遣うことなく、自分のことだけに時間を費やすことは、この時間にしか出来ない。私にとってなんとも贅沢な時間であった。
繰り返すことで「坐」への発見も色々とあった。私の中で「坐」が育った、、、。「坐」に由って育てられたともいえるが、、、。何か成果や効果を得ようと云う思いはほとんどなかった。3年も続いた理由はと言えば、坐るのが楽しかったからだ。毎回坐るごとに新鮮な様々な体験がある。豊かであり賑やかである。書き出してみると。。。
「結跏趺坐のまま背すじを伸ばして、微動だにせずぐっすり眠る」「大いびきかいて寝コケる」「軽やかにスッキリと背筋が伸びて気持ち良い」「恨み辛み不満が頭を離れない」「組んだ脚が痛くてジッとしていられない」「坐相がキレイと褒められ嬉しい」「半分眠りながら嵐に揉まれているごとく、ひっきりなしに首を前後に振る」「(居眠りで)横ざまに倒れ込む直前に目を覚まし、慌てて姿勢を正す」「周りの物音や人いきれが気になって、煩くて仕方がない」「無性に不機嫌になる」「家族のことが気になる」「家計の心配が心から離れない」「他人のことが羨ましくてたまらない」「終わってからいつもの焼き鳥屋に行くのが待ち遠しい」「自分が仏さまになったような気分がする」「周りの人にやたらと同情的になる」「嫉妬の炎が燃える」「強烈な孤独感」「静かさに包まれるように安らかに心地よく坐れる」「呼吸に注意を向けることが出来なくなるほどにイライラがつのる」「場の空気が輝きだす」「これはなかなか良い坐だぞ!」「世界全体に自分の坐が広がっている」「良く寝た~♪」。。。。これは書き出して行けばキリがない。何でもありだ。何せ70数回分の体験の貯えがある。
『妄想』の(結果の)展覧会である(笑)やっていることはと言えば「結跏趺坐を組んで自分の呼吸に注意を向ける」だけなのだが、賑やかな出来事が毎回体験される。普通、坐禅や瞑想中にこのような想念が浮かんでくることは、妄想とか邪念とかいって嫌うようである。ましてや居眠りの船を漕ぎ続けるなんて「集中が出来ていない」と否定的なニュアンスで語られることが多いようだ。(実践会でのシェアでも「今日は集中できなかった」という感想をよく耳にした)果たしてそうなのだろうか?「無心になれ!」などと言う、嘘っぱちの指導を信じている人が多いせいなのだろうか。
『妄想』は自分の体感に「集中」した結果として、心(意識)の中に浮かび上がってくる。というか私たちの頭の中には年がら年中、思考が渦巻いているのだが、それと意識しなければそれを感じることは無い。
呼吸(=からだの内的な動き・運動)に注意を置くと言うことは、その思考の渦巻きに溺れ埋もれている状態から意識(観点)を引き抜き引きはがして、その渦巻・波浪の景色をその外側(からだの側)から眺めることである。
私自身は「坐」を組むとき、呼吸(いき)に伴う腹部(丹田)の内動変化に注意(意識)を置くことが多いのだが、その腹部へ向かう意志(注意)を妨げて、脳内に引き戻し呑み込もうとするかのように、猛烈に先の体験例のような「妄想」(思考・感情やイメージ)が自分の気分を満たしてくる。(「妄想」とはいま現実には無いことを思い描くこと。これに対し「からだ」=呼吸は常にいまここを離れることなく現実に根差す)
「無心になれ」というリーダーの指示・暗示は、妄想(心)の消去へと私たちの意識的努力を差し向けさせる。これが「嘘っぱちの指導」(=解決の出来ない矛盾を背負わせる)である。消去しようと努力すればするほどに「妄想」は強固になり、こちらから攻めていたつもりが逆に妄想によって自身が掴み取られてしまう。(力を抜こうと努力すればするほどに、逆に力が入ってしまい抜けなくなる、のと一緒だ)
むしろ「妄想」はいくら出て来ても良いのだ。ただし大切なのはそれを構わぬことだ。妄想に囚われてしまうと、意識は身体感覚(呼吸運動の体感)を離れ去ってしまう。意識が「妄想」に取り込まれてしまう。脳の妄想・想念から繰り返し呼吸の動きの方へと意識を戻し、呼吸と共にある・いることへと意志を保つことが肝要だ。
『妄想』が浮かぶと言うことは、実は集中している証拠なのだ。集中すれば、次から次に妄想が浮かび上がってくる。つまり『妄想』が浮かんでくるとは、自分が「坐」に集中できている証拠なのである。そこで脳の『妄想・想念』に捕まることなく、現実・具体としての息の動き(からだの変化)に繰り返し戻り寄り添い続ける。「妄想・妄念」(思考)と「呼吸」(現実)の間を無限(∞)に行き来することが、私たちに出来ることだ。それが『坐』である。
実際にそんな状態を保つこと自体は、非常な努力を必要とし逃げ出したくなったりすることも在るが、終わってみれば楽しいものである。「今日の『坐』は、疲れていて眠ってばかりで酷かった」ななどと呟きながらも、心の奥底には満足感が光っている。その光を、大小を言わずに首肯するのが私にとっての『坐』である。
要約すれば、
・「坐」を組めば(坐禅・瞑想など)、想念・情念や思考が渦巻くことは当然であり、それは集中の結果として引き起こされている。
・ 想念・情念や思考を消去しようと努力したり、思考によって解決を計ろうとしてはならない。意識が、想念・情念や思考の深みに嵌まり抜け出せなくなる。身体(からだ)の具体性の世界から脳の観念世界へと取り込まれてしまう。
・呼吸や姿勢(からだ)に繰り返し意識を戻し繋ぐことが、私たちに唯一出来ることである。
・思考と身体の間の行き来を無限に繰り返す、その運動自体が生きていると言うことである。思考なら思考、身体ならば身体のみへと、そのどちらかだけに、自分を固定することは生きながらの死をもたらす。相互の「∞」(無限)循環運動こそが『自由』である。(宮澤賢治の斬新さはここにあるかも知れない)
・この循環運動は繰り返し新たである。二度と同じ地点に留まると言うことが無い。「坐」は常に新たな体験の到来を教えてくれる。無限循環は繰り返しのようでありながら、二度と同じと言うことはあり得ない。(螺旋運動?)
・集中とは「坐」して「からだ」に注意を転轍(てんてつ)する、その坐る行為自体が集中であり、「集中」出来たとか出来ないかと名付ける特殊な体験や状態があるわけでは無い。言うならば集中とは留まることの無い無限運動である。
坐禅とか瞑想という言葉には、何か既存の解釈や思想がくっ付いて、無自覚にイメージが強制されてしまっているようで、私はあまり使いたくない。だから『坐』のレッスンと呼んだりしている。誰にも強制されることなくひとり『坐』の体験の中から浮かび上がって来た、この文章は、まあ無責任な私個人の意見だ。しかし「からだ」と「意志」の孤独な真っ向勝負によってしか、自己は識られることは無いかもしれない。
これでは私個人の成果の発表になってしまうかも知れないので、一言付け加えると、「場のちから」によって私の「坐」が支えられていることを忘れてはならない。自宅で毎日一人で坐れば良いかというとそうはいかない。人が集まり「坐」を供にすれば、自然と集中に方向性が生まれ、眼には見えないが個人を超えた流れ(=力)がその場に働き始める。そのお陰で平常の自己を超えた集中が可能になる。本来ならば先ず何より実践会の主宰者とそこに集う方々に感謝であった!
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「坐」から見えて来たのは、変わらぬものなど無い(無常)という事実。すべてが常に新たな変転を繰り返している。変わることの無い確かなものが存在すると決めつけることは勘違いである。「自我」は変わらぬ正しさを主張する。これを頑固という。頑迷固陋という。
もし変わらないものが在るとすれば、それは「全てが変化を続け留まることが無い」という現実のみが、変わることが無いものだ。自我=意識には承服しがたいかもしれないが、「からだ」に付き添えば一目瞭然の事実である。「からだ」は状況との交流の中で絶え間なく変化を続けている(その典型が「呼吸=いき」である)。変化=移り変わりが無いとは「死」を意味する。
頑迷固陋な自我(自意識)を叩き割るのが「坐」の役目である。「死」からの再生である。坐れば自我の裂け目より光が射す。
自我による解釈や他者の放言にしがみ付いた理解など、再生の役には立たない。効果や意味付けを急ぐこともいらない。ただ「坐」るだけしかない。真に「満ち足りる」体験がやがてはやって来ることだろう。まあそれさえ期待せずに繰り返し、只坐れば良い。
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【3】 リアルレッスン( ① ワンディ10/4・10/25、② 伊豆温泉合宿11/7~8 )
先月は賢治童話『 ひのきとひなげし 』を読みました。賢治さんの「言葉」の力にはいつも驚かされます。風や太陽や山や空など、ふつう背景に見てしまうひとつひとつが、いわば舞台の登場人物として、主人公となる「ひのき」や「ひなげし」に向かってメッセージを送ります。自然の光景全体が、物語の登場者となってお話を進めて行くのです。
レッスンではその対話・交流を見て行きます。どう演じるとかどう読むかというような計算は一切いりません。普段私たちがおしゃべりをするように、例えば風とひなげしが触れ合い、交流をすればよいのです。
当面ワンディWSでは毎回、賢治童話をひとつづつ読んで行きます。「からだ」の緊張をほぐし「こえ」をひらき、生き生きと語られる「ことば」、その力を回復し育てて行きます。賢治さんの言葉を、からだ全体で読んで行く楽しみをぜひ体験してください。
素朴に大きな声を出したい人や、からだ全体で表現が出来るようになりたい方など、どうぞいらして下さい。
① ワンディWS開催
・10月 4日(日)9時 ~15時 新宿区若松地域センター 4階 和室「はなみずき」
・10月25日(日)9時 ~15時 新宿区大久保地域センター 3階 和室
施設の利用予約がひと月前からになっており、先の予定が立たずに申し訳ありませんが、10月の和室の予約が出来ました。どうぞ再開したリアルのレッスンにご参加ください。
② 伊豆温泉合宿WS 11/7~8
・11月7日(土)10時30分 ~ 11月8日(日)17時 「伊東温泉 お宿 鈴伝荘」
温泉旅館を貸し切りで利用させていただくことになりました。参加メンバーで気兼ねなくレッスンに集中できることでしょう。温泉も24時間開放です。日常からの息抜きにどうぞいらして下さい。
心身の緊張からの開放(野口体操)、呼吸と声の開放、からだ言葉によるイメージの表現(からことレッスン)等、一人一人のからだの情況に付き添いながら、丁寧にワークを進めて行きます。
最終レッスンとして賢治童話の朗読劇を内部上演します。
● ワークショップ開催の詳細は人間と演劇研究所ホームページ https://ningen-engeki.jimdo.com/ でご案内しています。
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【4】 オンラインレッスン開催予定
コロナ対策として5月から開始しましたオンライン教室『 野口体操を楽しもう 』。
この機会にどうぞご参加ください。
野口体操に実際に触れる機会が持てて有難いと、とくに東京以外に在住の方々から好評をいただいています。
●『 野口体操を楽しもう 』詳細は https://ningen-engeki.jimdo.com/ ご覧ください。
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【5】 ソマティック心理学協会イベントに参加
ソマティック・ウィーク 2020 が開催されます。
◎10月5日(月)~9日(金)無料イベント(オンライン)
「人間と演劇研究所オンラインイベントを開催」
◎10月10日(土)ソマティック東京フォーラム2020(代々木)
◎10月11日(日)ソマティック・フェスタ2020(オンライン)
「からだとことばといのちのレッスン ~流れ・息する・からだ~」瀬戸嶋が担当
● 詳細は ソマティック・リソース・ラボHP https://www.somaticworld.org/
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【6】 あとがき
通信№4 を書き終えました。これまでレッスンに関わってくださった方々と繋がりを継続したい。コロナの海に沈み込んで消え去ることはしたくない。そんな思いから始めた通信ですが、果たして継続できるのだろうか、毎回心配に心が揺れます。私の文章は、私自身の心の闇から、シャボン玉のように浮かび上がって来たもので、一生懸命書こうとすると浮かび上がってくる気配が消えてしまう。誰かのためにこの文章が意味を結ぶのかどうかも判りません。それでもまた今月も、体裁をこさえる(笑)ことが出来ました。ありがとうございました。
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● 私、瀬戸嶋 並びに 人間と演劇研究所の 活動と情報は、ホームページを中心にして告知を広げています。
レッスンへ参加頂く際は、ホームページをご確認ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/
● 問合せ・連絡 は、メール karadazerohonpo@gmail.com をご利用ください。
人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充 ばん
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