カピバラをペットにするというテレビの企画について思ったこと~いきものを飼育することの大変さ~

期待していなかった通りのことを、「I LOVE みんなのどうぶつ園」はやってしまった。狭い空間の中で、カピバラを数匹、しかも小さなプールしかないという状況の中で飼育するという企画をやってしまった。一時的なものであったとしても、あのような環境で飼育できるように放送してしまうのは問題だと思うのだ。

そもそもカピバラとはどういう生きものなのか。

いきなり分類とかいわれてもなかなか難しいと思うので、簡単に説明すると、大きなモルモットの仲間だ。けれどモルモットとは違い、立派な野生動物だ。大きな体で速く走ってくれば、人間だって捕まえるのは難しい。性格こそ穏やかではあるけれど、仮に怒ったり機嫌を悪くしたりすれば人間の手には負えなくなるだろう。大きな生きものというのは、それだけで人間よりも強くなることだってあるのだ。それだけでなく、カピバラは群で暮らす生きものだし、熱帯雨林で暮らす生きものだから寒さには弱い。寒い時期には暖かくする必要があるからこそ、飼育には細心の注意が必要なのだ。

カピバラに限らず、チンチラ、デグーなどのネズミの仲間は寒さには弱い。小さいから寒さに弱いというのもあるけれど、暖かいところで暮らす生きもので、日本のように四季がある場所では、人に懐くとはいえど、カワイイといえど、飼育するのは難しいのだ。

それにしても、なぜテレビ番組は、生きものを飼育することが簡単ではないということを伝えないのだろうか。あくまで個人の仮説だけれど、「カワイイ」ということを伝える際には邪魔になるからではないかと思う。

カピバラの噛む力は強く、石で歯を削ることもあるので石程度でもないとガリガリされてしまうと言った方がいいかもしれない。口に指を近づけて仮に噛まれたとすれば、簡単に切断されてしまうだろう。しかも本気で走れば時速50kmにも達するので、人間は吹っ飛ばされるだろう。そんな危険性を抱えているからこそ、カワイイだけじゃ済まされないのだ。

けれど、こういう現実を伝えれば、カワイイだけじゃ済まされなくなる。カワイイという「ファンタジー」を楽しみたい人にとっては、こういう現実的な情報というのは邪魔なのだ。視聴者がそういうことを求めている以上、テレビ番組側としてはそれに答えていく必要があるのではないかということがある。もちろん、カワイイという感覚よりもどうぶつたちのことを考えている人だっているけれど、その声はまだ少数派である。動物の福祉という考え方が、まだそれほど一般化していないというのは痛感しているが、それであっても、メディアの方から大切であるということを伝えていかなくては、考え方が広まっていかないのではないかと思う。

以前にも書いたが、テレビ番組を観る人というのは、別にその話題に詳しいというわけではないという人も多く、テレビに出演している芸能人目当てにしていることでどうぶつの知識に疎かったり興味がそれほどなかったりする場合も多い。そうなると、どうぶつのことよりも、「どうぶつと出演者が仲良くしている光景」の方が大切となって、生きものに関してはあまり注意を払わないどころか、「生きものを大切にしてほしい」と主張している人が、番組を潰そうとしているような存在に見えてきて厄介者として見えてくるのではないだろうか

野生種のネズミは簡単に飼育できるような生きものではない。それなのに、「こんな環境でも飼育できますよ」とすれば、粗悪な環境で飼育するというような人が増えてしまうのではないかという懸念がある。

そして、個人的に恐れていることは、カピバラが野生化することでヌートリアの二の舞になってしまうことだ。ヌートリアもカピバラに近いネズミの仲間だが、ヌートリアは戦前や戦時下において毛皮目的で日本に導入されて、それが野生化した生きものだ。動物園や水族館にいるカピバラは最初から人に慣れていた訳ではない。時間をかけて人に慣らしていき、触れ合えるようにしてきたのだ。けれど、野生化してしまえばその努力は水泡に帰すことになる。安易な飼育をしてしまい、無理だと思ったら適当な扱いをしてしまうような人がいるからこそ、心配なのだ。

テレビ番組が動物の福祉を伝えることの大切さは重要だけれど、それを意識しようとすると、「カワイイ」というファンタジーを求める視聴者からすれば煩わしいと思えてしまうのではないかと思う。けれど、生きものを扱う以上、その生きもののことをきちんと考えて行動する責任が伴うのだ。カワイイだけじゃ、済まされないのだ。

日本のペット市場というのは、衝動買いが多いということがある。気軽に「かえる(買える・飼える)」というイメージを付けることで売れるようにして、それで生きものを売っているということがある。けれど、生きものの幸せを考えると「気軽に」できるようなことではないのだ。

例えば、どうぶつ番組の裏に「生きものを売りたいというスポンサー」がいるとしよう。ペット用品のCMを流すスポンサーが付いている場合が多いけれど、それと同じように「生きものを出すことで利益が伴う人」もいる。そういう人が生きものたちをテレビに出演させて、それで少しでも飼育したいという人が増えていけば生きものたちも売れるようになる。もちろん、適切な環境で飼育できるかどうかをきちんと精査しないと売らないという人もいる。けれど、そういう人だけじゃないこともあるからこそ、嫌な予感もするのだ。

生きものを飼育するということ動物の福祉とは

そもそも、一時的なものであったとしても、珍しい生きものや住居と比べて大きな生きものは、飼育するのはお勧めしない。珍しい生きものが、「なぜ珍しいのか」ということを全く考えずに「珍しいという理由だけで」飼育をしてしまえば、やがては手に負えなくなることもあり得る。生きものを飼育するというのは、それだけ責任を伴うことなのだ。

そして、なぜ生きものを飼育するとき、生きもののことを第一に考えるべきなのか。生きものを飼育するということは、人間のエゴでもあり、向き合い続ける業(カルマ)でもあるのだ。そして、そのエゴによる生きものへのダメージを少しでも軽減していくために、人間が生きものから受けた恩恵を少しでも還元していく必要がある。それこそが、「動物の福祉」の性質の一部ともいえるものなのだ。要するに、人間が行った業に対しての罪滅ぼしの面が、そこにはあるのだ。

もちろん、それだけではない。生きものを守ることで、人間が生きていくことができるからだ。人間は、雑食性の生きものであり、野菜や果実などの植物にしても虫や鳥、哺乳類の力を借りてきて今のような豊かな食事がありつけるようになった。魚介類や海の幸にしても、豊かな環境が前提として成り立っている。直接的に命を食べるだけでなく、その背後には何八百万もの命が背後にいるといえるのだ。

人間は、生き残るために生きものの力を借りている。他の生きものに頼らないという生き方を模索している人たちもいれば、生きものと共に生きることを望む人もいる。けれど、生きている限り他の生きものの命を奪うことには変わりないし、それは飼育している生きものであってもそう言える。

そして、動物の福祉というのは、人間が生きものに対して行なえる、罪滅ぼしであり、恩返しでもあるのだ。僕たち人間は、直接他の生きものたちが何を考えているのかを知ることが限りなく難しい。その中で少しでもより良い生き方をしてほしいからこそ、さまざまなコストをかけて大切にしていこうとしている。けれど、それに逆行してしまうようなことは、して欲しくないのだ。

けれど、明らかにそれとは逆行するようにしてしまった。その失望感は相当なものだ。なぜ簡単に飼育できるような生きものだと伝えてしまったのだろうか。それが大きな疑問として残る企画であった。

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