思い込みを解く
本当についさっき、気づいた。
私は自罰的なところがある。
自分は○○してしまったから、バチがあたる、そのぶん苦労しなければいけない、良い人間になるためにはもっと努力して、苦労して、苦しみや悲しみを味わい、自己犠牲しなければ、私は永遠に未熟で、幸せにはなれない……苦しみを避けて幸せになろうだなんてムシが良い……
書いている今この瞬間ですでに思うけど、そこまで自分を追い詰めなくても、というほどに自分に厳しい。
でも心のどこかで、修行しなければいけない、苦労しなければ、と思っている。完璧な人を目指そうてしている。無理しなくていい、逃げていいと理解していても。
人生は魂を磨くところ。
そんな考えをもっている。
だから苦労するのは当たり前、辛いことの方が多いのは仕方ない……
でも。
いろんな人の言葉、本や友達の書いたものを読んで、時にはノートに書き写して、諳んじるほど何度も何度も読んで。
魂を磨くとか、修行の意味を過剰に厳しく捉えていたかもしれない。
ただ日々を生きること。
嬉しい、楽しい、辛い、悲しい、いろんなことを味わうこと。
修行というと滝行とか、自身をストイックに追い込むことばかりがフォーカスされがちだけれども、心地よさ、幸せ、日々を愛おしむことも立派な修行だと思う。
辛い日々の中で小さな幸せを見つけるとか、そういうのもそうだけど、もっと、気楽な感じ。
苦しむことを自身に課さない。
そもそも、私はもっと楽しさを味わって良い、楽しい、嬉しいという気持ち、自分がご機嫌でいることそのものが修行になる。
怠けていいとかではなく……
ただもう少し、自分で自分を追い込むのをやめる、良い気持ちでいることを積極的に捉える。
許す…とも違うけれども。
自分が楽しくいることで、誰かも救われているかもしれない。
楽しそうにしている人、幸せそうな人を見て羨ましくなって、苦しくなることも実際あるけど。
でもそしたら。
自分は未熟だから苦労しなければ、良い人間になれない、幸せになれないと思いつつ、幸せそうに見える人を羨んで、またそのことに自己嫌悪して……
それはあまりに苦しい、負のループだ。自分も、周りも辛い。
だったら……
他人を羨む気持ち、それは認める。私も幸せになりたい、もっと楽しく生きたい。
その欲を認める。
でも、“幸せでない”と自分を可哀想だというふうなレッテルは貼らない。
今まで私は十分一生懸命に生きてきた。
本当に頑張った、愛おしい自分。
頑張らなければ、幸せになってはいけない、なれない、という思い込みを外す。
自分が楽しくいること、少しでもご機嫌になれることを選ぶ。
それが自身の魂を磨くことになり、ひいては世界にもいい影響を与える。
そう思う。
そんなにもう自分を苦しめなくていい。
私は、私が楽しく、心地よくいられることを願って物事を選び、生きる。
魂の修行は、ヤスリでゴリゴリ削るんじゃない。
大事に、大事にクロスで拭いて磨いてあげる。
そういうことだ。
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