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「株式持ち合い」について

株式の持ち合い制度というのは、他国にも似たような例がまったくないわけではないが、基本的には日本企業に多く見られるもののようである。

持ち合い制度とは、親密な関係にある会社同士(取引銀行とか取引先、系列関係にあるような場合が多い)が、相互に相手方の発行済株式を保有している状態のことであり、相互保有されている株式を相互保有株式と言う。政策保有株式などと呼ばれることもある。

狙いとしては、安定株主を増やすことで、敵対的買収を防止することや、安定的かつ親密な取引関係の維持といったことがある。集団的自衛権みたいな感覚であろうか。

持ち合いの問題点はいろいろと指摘されているが、ざっくりと言うならば、お互いさまの馴れ合い関係ということで、相互にあまりウルさいことは言わないことになり、株主としての経営陣に対するチェック機能が十分に機能しなくなってしまうことである。

株主総会も形骸化し、経営陣による経済合理性を欠くような意思決定を看過してしまう可能性もある。

たしかに、米国企業などと比較すると、日本企業というものが、いろいろな意味で「ぬるい」感じがするのは、株主というか、マーケットからの強烈な「圧力」に常に晒されているとは言えないからであろう。

米国企業などは、株主が厳しく経営状態をチェックして、経営陣のパフォーマンスが期待外れだと、経営陣を入れ替えることも厭わない。企業とは株主のものであり、株主が投資した資金に見合う利益を還元するための装置なのである。

「マイ・インターン」という映画で、アン・アサウェイ演じるスタートアップ企業の創業者兼CEOが、業務量の増大で仕事が回らなくなっていることを株主から指摘されて、外部から新しいCEOを雇うように迫られていた。創業社長でさえ、そんな具合なのだ。米国の株主というのは、「カネも出す代わりに、口も出す」のが当たり前なのだ。

そういうわけで、日本においても、株式持ち合いはネガティブな評価を受けるようになり、70年代初頭くらいをピークとして、90年代以降くらいからは持ち合い解消の方向に進んでいるという。コーポレートガバナンス・コードでは、政策保有株式を保有している理由を明確に説明すべきであるとされている。

「失われた30年」の間、諸外国の企業が成長したのに比べて、日本企業、特に伝統的大企業の多くの成長は鈍化している。その結果、日本経済全体も成長せずに停滞してしまっている。企業のガバナンスの機能不全がその原因だとされており、株式持ち合いについても解消されるべきものという、ありていに言えば、ネガティブな制度として見られることが多い。

というわけで、日本で独自に発展を遂げてきた株式持ち合い制度も、おそらくは減少、消滅する運命にあるようであるが、ホントにそれで大丈夫なのだろうか。

米国流の企業統治の「正しい」あり方を是とするならば、市場の効率性を損ねている「良くない」制度ということになり、さっさと改めるべきということになるのだが、長年にわたり、存続してきたということは、わが国においては、それなりに役割なり意味があったということなんだろうし、その辺について理解しておかないと、改めてから困ったことになりはしないのかと思う。

以下は僕なりの考察になるのだが、株式持ち合い制度がこれだけ普及した背景として、おそらく、日本企業の経営者たちの多くは、ホントのところとして、「企業は株主のもの」だとは思っていないのではないだろうかと思う。

もちろん、企業は株主のものでもあるのは間違いないのだが、それは、日本国の主権者が国民であるというのと同じくらいに抽象度の高い概念としてそうであるという意味である。

実際のところ、会社の中のことについて細部に至るまで通暁しているのは経営陣であり、株主ではない。経営陣のホンネとしては、シロウトは黙って、自分たちのやることに口出ししないでもらいたいということであろう。

ただし、株主にもいろいろある。機関投資家とかアクティビストとか呼ばれる人たちは、投資先の企業や業界について熟知しているから、経営陣ほど現場のことは知らなくても、大所高所からのモニタリング機能を果たせる能力は持っている。したがって、経営陣がいい加減なことをやらないように、しばしば横槍を入れてくる。これは、経営陣からすれば、鬱陶しいし、めんどくさいということになる。日本の大企業の経営陣は、外部から口出しされることに、そもそも慣れていないからである。

日本の組織というものは、昔から良くも悪くも「現場主義」というか、現場の実務家が差配するようなやり方が一般的であった。そして、あまり口喧しいことは言わず、「良きに計らえ」と言って、何かあった時の責任だけ取ってくれるのが、良い権力者なのである。

平安時代の摂関政治、鎌倉幕府の執権制度、江戸幕府の老中や側用人、旧日本軍の参謀本部、そして中央官庁の官僚主導の政策運営、そして伝統的日本企業、どれも中身のソフトウェアは基本的に変わっていない。

株式持ち合い制度も、戦後、財閥が解体された後、持ち株会社を頂点とする資本の論理に基づくトップダウンな企業統治が難しくなったこと、公職追放の影響で部課長クラスだった人たちが持ち上がりで経営を担わざるを得なくなったこと等を背景に、日本のお家芸としての「現場主義」によって、安定的で持続可能性の高い企業統治のやり方として生み出されたものであると推察される。

この制度の利点をあげるならば、誰が真の支配者なのかよくわからないことである。誰が支配者かわからないから、とことん責任を追及されることもない。財閥が解体して、経営陣は皆んなサラリーマンばかり、それも本来ならば経営を担う立場まで昇るかどうかも定かではなかった軽量級ばかりである。株主からあれこれ厳しく注文つけられるのには慣れていないし、そんな責任は負いたくないから、持ち合い制度は便利であったに違いない。

ただし、経営陣にとって居心地の良い便利な制度ではあっても、マーケットからの圧力を実感する機会が乏しい分、緊張感に欠けることになる。意思決定のスピードや合理性、機動性が乏しくなることもあるかもしれない。だから、世の流れとして、株式持ち合い制度にメスが入っているということである。

株式持ち合い制度を縮小、廃止した後、マーケットからの圧力に常に晒され、機関投資家やアクティビスト、ハゲタカと対峙しながら、企業経営に取り組んでいく重圧に耐えられるような経営者は、日本の伝統的大企業にはあまり存在しないのではないだろうか。そもそも、そういう会社では、「内向き」な能力に秀でた社畜のようなサラリーマンの「上がり」のポジションが執行役員とか取締役のポストなのである。上司の意向を忖度して、社内に荒波を立てず、言われたことを粛々とこなし、言われないことはやらない。そういう人材でなければ、そこまで昇り詰めることはできない。彼らは、経営者になる教育など受けていないのである。

そうなると、社外、場合によっては海外から「プロ経営者」をスカウトしてくるしかなくなる。株主からも、そういう圧力がかかるかもしれない。映画「マイ・インターン」と同じである。投資している企業の経営者として相応しい能力を有しないと判断すれば、適当な経営者を招聘するよう迫るのも、株主としては当然の責務であり権利だからである。

もしかしたら、あと10年か20年くらい経ったら、伝統的日本企業の経営陣の大半が外国人になっていても不思議ではない。既に日本企業の株式のうち、約3割は外国人投資家が保有しているのだ。株式持ち合い制度が解消されて、浮動株の比率が上昇したら、さらに外国人投資家の保有割合が進むかもしれない。

気がついてみたら、日本の名だたる企業の多くは、経営陣も外国人、株主も外国人、配当も外国人にごっそりと吸い上げられて、日本人は単なるローカルスタッフとして雇われているだけといった図式になっている可能性は十分にあるだろう。

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