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映画「TAR/ター」について

先日から公開されて、世間で評判になっている映画「TAR/ター」を鑑賞した。

クラシック音楽の世界が舞台ということもあって、人によっては若干の敷居の高さを感じるかもしれないが、この映画のテーマ自体は、今のご時世においてはどこの企業や組織でも起こり得るような話であり、できれば多くの人に観てもらいたい。

本作を鑑賞して、僕の頭にまず浮かんだことは以下のような事柄である。

  • 大きな権力を持ってしまうと、人は堕落してしまいがちである。どんなに優秀な人間であっても、そこから逃れることは難しい。

  • 大きな権力を持つ人のところには、何らかの利益を得たいという思惑を持った人間が集まって来るものである。そうした人間は、権力者が権力を持っている間は媚びへつらうが、利用価値がなくなった途端に離れていくものである。

  • 権力者は孤独なものである。周囲に集まって来る人間たちの多くは、本心から権力者をリスペクトしているわけではなく、本当に心を許せる相手でもない。むしろスキあらば、引きずりおろしてやろうと虎視眈々と機会をうかがっているような連中ばかりと考えるべきである。

  • 現代社会においては、大きな権力を持つ人ほど「キャンセル・カルチャー」の餌食になりやすい。ネタの真偽自体はさほど重要ではない。告発されること自体が致命的であり、それまでのキャリアが輝かしいほど失うものも大きい。

この作品は、当初は男性を主人公にする案もあったらしいが、もしも男性を主人公にしてしまうと、単なるセクハラ・パワハラ親父の話になってしまうので、監督・脚本家のトッド・フィールドは、敢えて主人公を女性に変更したという。ただし主人公のリディア・ターは男性社会で昇り詰めただけのことはあって、その中身たるや男性以上に男性的な人物として描かれている。

主人公はレズビアンであることを公表しており、女性パートナーおよび非白人の養女と3人で生活しているが、彼女の家庭観は昭和世代の親父並みである。家事や育児は基本的にパートナー任せ切り。自宅以外に仕事部屋を持っており、気が向いた時くらいしか帰宅しない。そのくせ、養女が学校でイジメられていると聞けば、学校に乗り込んでいって、イジメの首謀者を大人げないレベルで恫喝したりする。たぶん、当人は「良きパパ」気取りなのであろう。それでいて、家庭の外でやっていることとなると、好みのタイプの若い新人を贔屓して採用したり、その彼女を昼食に誘ったり、あるいは大役に抜擢して自宅で個人指導したり、出張のお供に同伴してみたりと、どこかの企業のオッサン幹部社員がやりそうなことばかりである。

自分が有能であること、大きな権力を持っていることを自覚しており、周囲の人間は自分の前に跪かせて服従させるべき存在くらいにしか見ていない。とはいえ、昔の典型的なパワハラ親父みたいなわかりやすい問題行動、たとえば暴力をふるったり、モノを投げたり、大声をあげたりといったことはやらない。もっと巧妙かつ容赦ないのである。その一例はジュリアード音楽院での授業風景である。バッハに興味がないと言った男子学生をやり込めるシーンなのだが、理詰めでジワジワと逃げ道を塞いで、まるで蛇が蛙をいたぶっているような印象を受ける。このシーンで不快感を覚える人は少なくないかもしれないが、僕としては、「これくらいでパワハラに該当するのかなあ?」とも思ったということは書いておきたい。

というのも、この男子学生みたいに自分の不勉強や不見識を棚に上げて、勝手な屁理屈をこねくり回して自身を正当化しようとするような若者が、最近、増えているような気がするからである。銀行時代の部下にもいたし、今の会社にもいる。

なぜか自己肯定感だけは強くて、少しダメ出しをされると簡単に傷つき、些細なことでもパワハラだと騒ぐのだ。僕は古いタイプの人間なので、こういう若者は今後のためにも厳しく指導してやった方が良いんじゃないかと考えてしまうのである。

この男子学生はプロの指揮者をめざしているにもかかわらず、バッハには興味ないと悪びれずに言う。自分はマイノリティでパンセクシャルだから、白人で男尊女卑的なバッハに興味が持てないというのが彼の理屈であるが、人格・属性と業績の価値とは切り分けて考えるべきであろう。また、ジュリアードに入学したのも、全米一有名な音楽大学だからだとも彼は言う。いかにも薄っぺらであるし、没個性的で、あまり深く物事を考えるタイプの人間ではないことがわかる。まさにSNSで人格も魂も形成されているような若者である。

ジュリアード音楽院での授業シーン

話を戻すことにしたい。

リディアはセルフプロデュース能力に優れており、自分をどのように見せるべきかについても入念に研究をしている。過去の巨匠たちのレコードジャケットを床一面に並べて、その中からクラウディオ・アバドの「マーラー/交響曲第5番」のジャケットを選び出し、それに似せたポーズで写真撮影をするシーンがあった。写真のジャケットはこの映画のサントラ盤のものであるが、こういう感じのレコードジャケットをイメージしていたのであろうか。顔の向き、背景が違うだけで、アバドをパクっていることは明白である。

映画「TAR/ター」サントラ盤ジャケット
アバド&ベルリンフィル/マーラー交響曲第5番ジャケット

リディア・ターはベルリン・フィルハーモニーの女性初の常任指揮者である。アバドはカラヤンの後釜としてベルリン・フィルのトップの座に就いたこともある世界的指揮者、つまりリディアにとっては何代か隔てた前任者である。もちろんリディアは架空の人物であり、アバドは実在の人物である。

ベルリン・フィルは、クラシック音楽ファンならばわかると思うが、ウィーン・フィルと並ぶ世界最高峰のオーケストラである。ウィーン・フィルの方が、良い意味で、ドイツ・オーストリア圏の保守性やローカル色をいまも大切にしているのに対して、ベルリン・フィルは世界中から集められた腕利きのメンバーによって構成されており、ウィーン・フィルよりもモダンで国際色豊かである。また、わりと最近まで女性メンバーが皆無だったウィーン・フィルと違って、ベルリン・フィルには女性メンバーも多い。ただし、それでも2割弱くらいであるという。

ここでマーラーの交響曲第5番のジャケット撮影のシーンが登場するのは、リディアがベルリン・フィルとこの曲のライブ録音を近々予定しているからに他ならない。マーラーの交響曲は全部で9曲ある(番号の付されていない「大地の歌」を含めると全10曲。未完成の第10番は除外)。第5番を録音すると、史上初、同一オケによるマーラーの全交響曲のレコーディングが完成するのだという。気合が入るのも無理はない。

というような具合で、指揮者としてだけでなく、作曲家としても名声を獲得し、音楽家として世界の頂点にまで昇り詰めた感のあるリディアであるが、かつての教え子である若い女性指揮者クリスタが自殺したあたりから徐々に雲行きが怪しくなってくる。

リディアが主張するように、リディアには非はなくて、単に自殺した女性指揮者側のメンタル面の問題でしかなかったのか、リディアが意図的に彼女を追い詰めた結果として死を選んだのか、その辺のことはよくわからない。ただ、リディアと助手のフランチェスカも含めた3人で旅行に行ったこともあるくらいであるから、単なる師と教え子以上の親密な関係(性的関係も含めて)にあったことは想像できる。ただし、リディアが彼女に対して肉体関係を強要していたかどうかまでは不明である。いずれにせよ、死んだ女性の両親からリディアは告発されることになり、それが彼女の順風満帆だったキャリアに影を落とすことになる。

「キャンセル・カルチャー」という言葉がある。
Wikipediaから引用するが、<主にソーシャルメディア上で、過去の言動などを理由に対象の人物を追放する、現代における排斥の形態の1つ。典型的には、芸能人や政治家といった著名人を対象に、過去の犯罪や不祥事、不適切な言動とその記録を掘り起こし、大衆に拡散して炎上を誘って社会的地位を失わせる運動や、それを良しとする風潮を指す 。2010年代中頃からアメリカ合衆国を中心に全世界に拡大した。>といった意味である。

今のご時世、有名人であるほど、「キャンセル・カルチャー」の餌食になりやすい。映画の中でも語られていたように、「告発されるだけでも、有罪と同じ」なのである。有名人ほどスキャンダルともなれば、失うものも大きいからである。

ジュリアードの授業シーンも、IT機器持ち込み禁止であるにもかかわらず、誰かに盗撮された動画が、悪意のある編集や加工をされた上で、ネット上に晒されることになる。昨今のデジタル技術をもってすれば、言っていないことを言ったように加工するくらい朝飯前である。誰の仕業かは明らかにされていないが、助手のフランチェスカか、パトロンのエリオットによるものか、あるいは彼らの共謀によるもののような匂いがする。

権力者ほど、少し風向きが変わった途端、それまで媚びへつらっていた周囲の人間たちが、ハイエナのように襲いかかり、権力の座から引きずりおろそうとするものだということが、よくわかる。結局、権力者の周囲にいる人間は打算で集まっているだけであって、本当に心を許せる人間はいないか、仮にいたとしてもごく少数ということになる。

リハーサル場面①
リハーサル場面②

リディアの助手のフランチェスカが、リディアにコキ使われながらも献身的に尽くしているのは、副指揮者のセバスティアンの後任に自分が任命されるとの思惑があればこそであるが、その可能性が消えた途端に、リディアの前からさっさと姿を消している。側近だっただけに、野に放って敵に回したら、とても厄介な存在である。詳しくは描かれていないが、リディアにとって不都合な情報がフランチェスカからリークされて、それがリディアに大きな打撃になったことは推測される。

チェロ奏者のオルガの行動も不可解である。映画冒頭からたびたび登場するSNSはオルガがリディアをディスっているもののようである。誰とやり取りしているかは明らかにされていない。結局、彼女は世に出るためにリディアの寵愛をうまく利用していただけで、本心ではリディアを馬鹿にしていたのであろう。オルガと二人でいる場面では、リディアよりもオルガの方が主導権を握っており、リディアはオルガの機嫌を損ねないように気を遣っている様子がうかがわれる。若い愛人のワガママに振り回されているオッサンみたいなリディアがちょっと気の毒でさえある。

リディアとパートナーであるシャロンとの関係は、本当の愛情による結びつきのように思われたが、結局のところは双方の打算に基づき利用し合っていただけなのだろう。客演指揮者として初めてベルリンに来たリディアは、常任指揮者になるためにコンマスのシャロンを利用し、シャロンもまたリディアとの関係を利用していたことは否めない。養女のペトラとの関係は欲得抜きであったのであろうが、それもシャロンとの関係解消によって失われることになる。シャロンとしては、家庭を顧みず、肝心なことは何も相談しようとはせず、外で若い女の尻を追いかけまわしている「夫」にはもともと愛想が尽きていたが、それでも我慢していたのは「夫」が権力者であったからであるが、権力を失ったらもう用はないということであろう。熟年離婚する夫婦を見ているようで身につまされる。

不可解だったのは、自宅の書棚から、マーラーの交響曲第5番の総譜(スコア)が消えたシーンである。指揮者にとっては、いろいろと書き込みもしている大切な商売道具である。自宅であるから、部外者が勝手に持ち出すことは難しい。おそらくではあるが、既にリディアに見切りをつけていたシャロンかフランチェスカが、リディアの代役を務めることになるであろうパトロンのエリオットに渡したのではないだろうか。エリオットはアマチュア指揮者で、リディアの指導も受けており、模倣は無意味であるとリディアにたしなめられるシーンがあったからである。一流オケをアマチュアが指揮できるのかという疑問が生じるが、前例がないわけではない。要するにおカネで解決できるということである。

リディアのように自分の能力に全幅の信頼を持つ人物にとって、周囲の人間は屈服させ服従させる対象でしかないので、周囲の人間が自分に歯向かったり裏切ることをあまり考えてはいない。織田信長などもこのタイプに属するのではないだろうか。このタイプの人は、それまで押さえつけていた相手に逆襲されると、意外と脆いのかもしれない。

かくして、せっかく築き上げてきた輝かしいキャリアも大切な人もすべて失い、アジア某国(タイみたいである)でオタクみたいな聴衆を相手にゲーム音楽の演奏会で指揮をするシーンでこの映画は終わる。最後のシーンに目くじらを立てて、アジア蔑視だとか、サブカルを馬鹿にしていると言う人もいるらしいが、そこはあまりこだわるポイントではないと思う。クラシック音楽界の頂点から転落した人物が再起を図るべき新たな居場所として、対照的でわかりやすかっただけであり、それ以上の深読みは必要ないと思う。それにリディアは再起を図る意欲満々であり、決してキャリアを諦めたわけではないことは、このエンディングからもうかがわれる。

短いシーンだが印象的だったのは、リディアが実家に里帰りする場面である。彼女の実家はごく普通の一般家庭であり、決して裕福で恵まれた階層の出身ではないことがわかる。兄か弟と思われる人物が登場するが、知的な雰囲気はまるで感じられない。彼との会話から、彼女の本名はリディアではなくリンダであることも明らかになる。バーンスタインの「ヤング・ピープルズ・コンサート」の白黒ビデオを見て彼女が涙を流すシーンを見ていると、バーンスタインに師事したという話も、もしかしたら嘘っぱちではないかと思われてくる。人並外れた才能には恵まれていたのであろうが、経歴を飾りたて(嘘やロンダリングも含めて)、強烈な上昇意欲と凄まじい努力でもって、一旦は山の頂上まで昇り詰めたものの、運悪く地上に転落してしまい、スタート地点である実家に戻って来て、自身の原点を再確認するシーンということなのであろうか。

どこの国の人間も、他人を叩くのが大好きなのであろう。「文春砲」なんて、その典型である。大きな権力を持つ有名人ほど、餌食になりやすいし、大衆は獲物が大きいほど喜ぶものである。

権力を掴むのももちろん難しいが、恒久的に持ち続けることはもっと難しい。ベルリン・フィルで「帝王」と呼ばれたカラヤンも、お気に入りの女流クラリネット奏者をベルリン・フィルに入団させようとして楽団員と対立する事件を起こし、それが原因でベルリン・フィルを去っている。この映画のモデルの1人は、間違いなくカラヤンである。

この映画でも実名で使われているが、ジェイムズ・レヴァインは男性に対する性的虐待疑惑で告発されたことが原因で、メトロポリタン歌劇場の監督を解雇されている。同様にシャルル・デュトワはセクハラ事件が原因で、英ロイヤル・フィルのポストを退任させられた。

他にもヴァレリー・ゲルギエフは、ロシアのプーチンとの親密な関係が原因で、ミュンヘン・フィル他のポストを失っているし、リッカルド・ムーティがミラノ・スカラ座の監督を辞めたのは、楽団員や職員からの圧倒的な不信任が原因とされている。

つまり、「キャンセル・カルチャー」の実例は、クラシック業界においては、あまり珍しくもないということになる。むしろ、昔々から政治的な駆け引きや権謀術数でドロドロとした世界であり、不可解な事例は他にもたくさんある。

この映画の監督・脚本家であるトッド・フィールドが、現代社会の行き過ぎた「キャンセル・カルチャー」に対して批判的な立場にあることは明らかであろう。もちろん権力者側にも問題があるわけだし、リディア・タ―を正当化する意図もない。要するに「どっちも、どっち」であり、自分だけを棚に上げて、誰かを批判したり、引きずりおろそうとするような昨今の風潮に対して疑問符を投げかけていると見るべきなのだろう。

ジュリアード音楽院のシーンのやり取りにおいても、個人の人格・属性と業績の価値とは切り分けて考えるべきだとの見解が提示されていたが、これは監督の主張でもあるのだろう。日本でも、役者やミュージシャンに何か不祥事があると、彼らが関与した過去の作品まで封印してしまう風潮があるが、ああいうのはナンセンスであろう。個人の問題と作品の価値は無関係だからである。

まあ、それにしても、昔から言われるとおり、この世の中は、「諸行無常」「盛者必衰」なのである。権力を持った瞬間から、転落の兆しは既にスタートしていると考えるべきであろう。転落するのが嫌ならば、最初から権力を望むべきではないのだろう。

それでも権威あるポストに就いてしまった場合には、「カネ持ち喧嘩せず」と言われるとおり、まずは敵を作らぬことである。それでも、自ら敵を作らぬように努めたところで、誰かの標的にされるかもしれない。その場合は、自分を標的にして追い落とそうとしている相手にポストを進呈して、さっさと逃げ出してしまった方が精神衛生上は良さそうである。

そんなことをあれこれと考えていると、地位やポジションにはこだわらず、フリーランスのままでやりたいことだけやって生きるのが最も賢い生き方ではなかろうかと思い至ることになる。

カラヤンがベルリン・フィルを去った後、楽団員たちがカラヤンの後任として熱望していたのは、実はアバドでもマゼールでもなくて本当はカルロス・クライバーだったという話を聞いたことがある。もちろん、世界最高峰のオケの監督業みたいな厄介な仕事をクライバーが引き受けるはずもなく、史実が示すとおり後任にはアバドが選ばれたのであるが、果たしてアバドとクライバーのどちらが幸せだったのだろうか。

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