創価離脱3年目
とあるアカウントから@が来て、私がツイッターを始めて、今日で4年になるんだと教えてくれました。ということは、私が創価学会の現場を離れて、3年程になるわけですね。ツイッターで1年ほどあーでもないこーでもないとウダウダ言ってから離脱したので。まだ、そんなものか・・・という感じがするほど、遠い昔の事のように感じるんですけどね。
現場を離れ、退会もしたんですけど、聖教新聞の販売強化月間や選挙のシーズンになると、「偶然通りかかった」創価学会員に出会う機会が多くなります。そろそろ選挙の季節・・・ってことで、先日、偶然近くまできたというご婦人が訪ねてきました。
その彼女、実の妹さんが亡くなってしまい、「しばらく立ち直れなかったんだ」という話をしてくれました。妹さんは私と同じ年で、まあ正味40代半ばです。若いですよね。「悲しくて毎日泣き続けていたのだけど・・・」と少し口ごもった後に彼女はこう言いました。
「でもまあ、死んで良かったかなって。」
絶句する私に、彼女は話し続けました。
「統合失調症を患っていて本人も苦しそうだったし、早く死んで、早く綺麗な命で眷属の元に生まれ変わってきたら、そのほうが幸せでしょ?」
創価学会ってそういう話をする会なんでしたっけ?思わず、某カルト団体が言っていた「ポア」という言葉を連想しちゃいましたよ。( ̄▽ ̄) 死ねば髙いステージに生まれ変われるってか。じゃあ、困難に挫けそうになったらみんな死んじまえば?来世に賭ければ?・・・・・・
私の記憶の中では、「願兼於業」といって、「生まれ変わる→自ら望んで困難な宿命の元に生まれる→その困難を乗り越えて見せる→その姿が仏法の力の証明だ!→死ぬ」っていう無限ループな闘争の生き方をするのが創価学会なんだと思ってたんですけどもが。創価学会の信仰に基いて言うなら、妹さんはまた、似たような宿命の元に生まれ、同じように苦しみ、同じように戦うのでは?勝つまでは死んではいけなかったのでは?と思いましたけど言いませんでしたけどもが。さすがに。
「勝つまでは」と書きましたけど、私はそういう考えはホントは嫌いっす。本来の仏法は・・・とか言うのも自分で言ってゾゾゾーっなんですけども、創価学会の信仰って「今この瞬間に勝つ」というテーマの元にやっていかないと変な方向へ進みがちになるんですよね。因果倶時というのは「今この瞬間」に完結する意味なわけですけど、同時に「冬は必ず春となる」って先延ばし思想の根拠になりがちな日蓮さんの言葉もあるわけで。
そんなこんなで話をする中で、創価学会の中でよく言われる、習慣や活動内容の「地域差が激しい」とかいうのも、要するに「結果オーライならどんな解釈もあり」っていう、普通、宗教団体としては譲ってはいけない部分すら融通効かしちゃう節操の無さなのかな・・・・なんてことを考えててました。
まあ今日はそんな話です。
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