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ザ・功徳

ソーカな人々の間でよく使われる用語のなかに「功徳」って言葉があります。

多くの場合は、自分の悩みが解決したり、病気が治ったり、目標にしていたことを達成して満足したり、生きづらかった環境が自分の思うように変化していったり、そんな自分&仲間の都合を軸として使われがちな言葉です。(ひとつ言っておきますけど、そういう会員もいるよという話であって、すべてのソーカマンがそうだということを言っているのではありません。はい。)

が。日蓮さんが言うた功徳っていうのは、立正案国だ自行化他だいう話から察するに、道理の通る世の中になっていけば、良い世界になって、良い世界に生きる自分も当然にその恩恵を受け、良い生涯を送れるであろう、良い世界の実現に尽力した自分は、自然に徳を積んだ姿になってるであろう、そういう話じゃないんすかね。砕いていけば、信念にかなった良いことをやっていく満足感が自身を輝かせる。そういうたぐいの話ではないかと。(さらには功徳が直接の目的ではないわけですが。)

私が入会したのは、山本リンダの折伏セミナーがきっかけだったんですけど、その時にリンダが「この信心は、よくある宗教のようなおすがり信仰ではない。誰かの力を借りて救われるのを待つという種類の信仰ではなくて、自分で切り開く力を手に入れる、そのための信仰。自分で自分の道を切り開いていくところに醍醐味があるんだ。」と、そんな話をしていました。

セミナーが終わった時点で私はすでに入会することを決めていたので、書籍コーナーで数冊の教学本を買って帰りました。それを読んでも、やはりリンダが言っていたように「救われるのを待つのではない。自分の内側に本来ある力を開くだけ。内側に本来ある力 = 仏性。その開花を広げていく運動。」という感じの設定になってましたので、私はそれを信頼したんす。

ところがです。

やっていくなかで、自然と「おすがり信仰」になっている自分に気づくわけですね。

こうすれば功徳がある、こうすれば福運が付く、そう直接言われるわけではありませんよ。ただ、「○○をした。功徳を頂いた。」っていう体験談が圧倒的に溢れているだけで。そうすると、当然のこととして、じゃあ○○すれば功徳があるのだな・・・となりますよね。○○の部分には当然、その時のタイミングにふさわしい「学会活動」が当てはまり、功徳の部分には「病気が治った」「息子の就職が決まった」などが入るわけです。

例えばそれが選挙のシーズンなら、その人は、病気を治すために友人に公明党への投票依頼をしたわけですね。それが、信仰を持つ本人にとっては、因果として繋がっている。しかし、結果的に病気が治ったとしても、それが宗教活動の力によって「自分の内側にある本来の力を引き出した」ことになるでしょうか。

例えば、原因不明の病気を治そうと、いろんな人に相談をしてみて、その中の誰かについでに投票依頼もしながら話を聞いていたら、「いい先生を知ってるよ」って人が現れて、で結果、病気が治った。ということがあるかもしれません。本人にとっては「投票依頼活動で病気が治った」のかもしれませんが、そこまで砕いて考えるなら、それは宗教活動とは関係なく、ただ困ったときに人に相談のできる性格であれば良いだけの話です。

「○○をやれば、△△をもらえる。」という条件で動くのは「取引」っす。

取引に堕した宗教活動は、おすがり信仰と呼ぶにふさわしい。わしはそう思います。

日頃の自分の行いが、生活を規則正しくさせ、あらゆることに注意深くさせ、精神を浄化し、朗らかで穏やかな性格にさせ、それによって、対人関係等が変わっていき、良い縁によって良い運がめぐってくるのなら、そりゃあ良いことですよね。「功徳」という言葉から想定されるのは、そういった経過を踏んで徳の高い人になっていくという話なんじゃありませんこと?で、そこに、宗教は必ずしも必要ですかい?・・・・いや要らんですよねえ。

よく言われるのが、「人間は一人では弱いから、助けてくれる仲間が必要」だとかいう話。

いや、日頃の行いで、自分を高めていけるように生きようと願うときに、一人では弱くてダメな人はそもそもがダメでしょうよ。犬じゃねんだから。・・・・・ま、それは「一人では弱いから」って話をするときの目的がそもそも違うって話なんですけどね。

なに言ってるか、よーわからんくなってきましたけど、ま、ソーカマンでソーカをおすがり信仰だと思っている人はまず居ないと思います。その自己認識と、現実に使われている「功徳」という言葉の意味との乖離について、立ち止まって見なおして見た時にですよ、無責任で軽率な行動っていうのは、随分減っていくんじゃないかなってのは思います。はい。

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