ザ・師弟

私はソーカが嫌いです。( ̄(工) ̄)

最近は特に「師弟」を全面に押し出しておるようですが、特にその「師弟」が嫌いです。師弟とは、どこまで行っても模倣に過ぎず、真似っ子はどこまで行ったって真似っ子です。

技術的な職人芸のようなものなら、師匠の元で、師匠の模倣から始まり、技術を身につけ、独立して一人前になるという過程があって、そこには師弟があって素晴らしいと思うんすが、ソーカの師匠の場合は生き方の話をしているわけです。ぶっちゃけ人として師匠のなにがなんだっつうんですかね。特別にオリジナルな宗教的思想や発見を持っているのであれば、それは教祖様でしょう。しかし、ソーカマンは、師匠を教祖様だとは認めないですね。私もそれは実際に違うと思いますし。では何の師匠なのか。生き方や道徳のレベルの師匠でしょ。それって結局、誰の目から見ても善いものは善いってものを、善いと教えてくれる師匠って話じゃありませんか。当たり前のことを言ってるだけですよね。ソレ以上になにがあるんです?大ちゃんに。師匠として真似っ子する価値すら疑わしいと私は思います。マジで言ってますよ。はい。

ちょっと話が逸れてますかね。

要するにソーカマンってのは「人生の師匠」を特定の人物に限定して、さらには師弟の誓いを立てるってな行為をするわけですが、人生をより良くするためには、視野を広く持ち、すべてのものから学び取るのだというくらいの気概があったほうがよろしいんじゃありませんの?と思うわけです。

なぜソーカが師弟を強調するかっていうと、それは「実践の連鎖」っていう発想だと思うんですよね。日蓮さんの言った広宣流布っていう話がありますが、法華経を弘める行動をする人の連鎖の波、それが広宣流布なわけです。ってことはですよ。法を弘める人でなくてはならないのですから、ネズミ講のような、親→子 への広がりではなくて、親→子から親へ成長した人 への広がりでなくてはならないわけですよね。ってことはですよ。師弟関係の維持ってのは、子を子のままでいさせてません?(ま。「法」の解釈が「呪文を唱えること」とか「本尊を祀ること」って話なんであれば、子は子のままでよいでしょうけれども。)

子が親へ育てば「かつての親」に対する恩を持ち、「かつての仲間」とのゆるい連帯を保ちつつも、組織活動の持つ意味が薄れ、かつての旗を降ろし、広い視野をもって己の道を歩み始めるはずです。しかし現実には、弟子として組織維持のために生きろ!ってことを強く推奨する言動に溢れてるわけっす。

しかしです。ソーカで学んだことを、ソーカの看板をおろし、自分の言葉で伝えていこうとする人がいて、それによって現実にはソーカの旗が滅びてしまっても、そういう人たちがソーカ精神を受け継いで生きているならそれでいいじゃありませんか。てかそれが目的でしょ。

大ちゃんの正義って目的よりも大切なものですかね。

違いますよね。ソーカの旗が消えてこそ、その思想が人々にリアルに染みこんだってことなんすよ。それをわからん人ってのは、信者だろうがアンチだろうが、私は基本、嫌いなんす。

ま。軽く、そんな話っす。

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