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早紀子との飲み会

掘りごたつのある居酒屋で早紀子と向かい合って飲んでいる。
俺はビールだけ。
早紀子は途中から日本酒に変えた。
ワインが好きだと言っていたが、居酒屋では日本酒なのだろうか。
メニューにはワインも載っていたが、気に入った、あるいは分かる銘柄がなかったのか。

かれこれ3時間以上サシで飲んでいる。
話した内容も聞いたそばから忘れていくような、他愛のないことが多い。

家族のことを聞いてみる。
以前も職場で聞いてはいるが。
確か父親はとうに死んでおり、老いた母親と妹との3人暮らしのはず。

「うん。母と一緒」
「あれ? きょうだいいなかったっけ? まさか一人娘?」
「母と一緒に住んでるの」

早紀子は、前に言ったことが次に聞くと違っているということがよくある。
今回もそうだ。
何も考えていないのか、普段は適当に答えているだけなのか。
家族のことは、あまり話したくないだけなのか。

まあ、母と一緒に、とはいっても、住んでいるのが母と一緒なのであって、妹はどこか別のところに住んでいるか、あるいは結婚でもしているのか。
どうでもいいが。

漬物を取ろうとして、箸が掘りごたつの中に落ちた。
掘りごたつと名乗ってはいても、脚を楽にして卓を囲めるというだけの、座敷のある飲食店によくあるあれだ。
当然こたつ布団がかかってるわけはないのでスースーする。

拾うため、テーブルの下に頭を潜らせる。
早紀子の脚が見える。
今日のスカートもいつものように膝丈のプリーツで、真っ黒いタイツに包まれた脚はきちんと閉じられている。

テーブルの板越しに、替えの箸を持ってきてと頼むくぐもった早紀子の声が聞こえてくる。
放っておかれなかったことに、ちょっとだけ安堵する。

「しかし、こうやってサシで飲むのって初めてですよね」

店員の持ってきた箸を受け取りながら、なぜか微妙に丁寧な言い回しで問いかける。

「そう。意外よね。ずっと同じ職場なのに」
「終わる時間がいつも遅いですからね」
「でも、なんか楽しいよね」
「そうですか。よかった」
「一度、一緒に飲んでみたいなと思ってたの」

早紀子は付き合いが悪いわけではなく、むしろ良い方だ。
サシで飲むのが初めてなのであって、多人数の飲み会、たとえば何かの打ち上げや歓送迎会への出席率は、結構高い。
そういう場では特定の誰かといつも一緒に座るということもなく、それなりに誰とでも喋っているようなのでコミュ障ってことももちろんない。

だが、普段は雑談に興じることもあまりなく、仕事が終われば何処にも寄らず、一直線で退社する。
いつも仕事以外の何かに追われているような、そんな雰囲気を感じることもある。

きょう、こうして飲んでいるのも前日から早紀子を「予約」していたから叶ったわけで、そうでなければ今頃はとっくに自宅だったろう。
そういう意味でも、きょうこうして早紀子と長々と飲んでいるのは極めて稀有なことだと思う。

50も半ばに差し掛かろうという彼女だが、自宅で母と2人暮らしと語るように、独身…のはずだ。

ナゾの多い部分は確かにあって、部内でもプライベートの詳細を知る者は皆無に等しい。
独身と言っても、それの真偽を確認した者がいるわけではない。
本当は旦那がいることを隠しているのかも、という意見もあるにはあるが、結婚している人間は男女問わず、思わず醸し出してしまう「結婚臭」というものがあるものだ。
彼女には、それが全くない。
それは話の端々や、何気のない、ちょっとした身のこなしからも感じ取れる。

こちらも半世紀以上生きてきた人間だ。
積み上げた経験値ってものがある。
抱いた女の数だって人並み以上だ。
早紀子は本当に独身だと、離婚や死別で独身になったのではなく、生まれてこの方ただの一度も結婚したことのない女だということが、確信として分かる。

少し白髪の交じる髪の毛は平たく言えばパサパサだ。
顔や手など露出部分の肌も、お世辞にも手入れが行き届いているようには見えない。
帰れば老いた母の世話などで家事全般こなしているのだろう。
艶のなくなった手の甲の様子で想像がつく。

着ている服も地味の極みで、黒やダークグレー、こげ茶色が多く、同じ職場の同年輩で、コテコテに化粧している小田とは比較対象にすらならず、いやむしろ、全年齢層の中で埋没している。
灰色の事務机や床、汚れた白い壁に完全に同化してしまい、出社していても全く気づかないこともしょっちゅうだ。
指や耳、首周りを彩る光り物も身に着けていない。

女ってのはどんな歳であってもアクセの一つや二つ、たとえワンポイントであっても色違いの目立つものを身に着けていそうなものだが、それも一切ない。
額のシワや右の頬にある小さなシミだって、隠し立てすることなく曝け出したままだ。
化粧も全くしてこない。

なのに彼女は、なぜかかわいい。

顔だけでなく、雰囲気や、顔を合わせば必ず「こんにちわ」と挨拶してくる、その自然さが。

美人とか、綺麗というのとは違う。
かわいいと言っても、若い女の子から自然と溢れ出てくるかわいさとか、あるいはわざとらしいかわいさというのではなく、本人の意識とは関係なく、生まれ持った物理的、精神的な、年齢とは関係のないかわいさが勝手に発露されているのだ。

これは彼女がまだ若かったときから変わってない。
だから当然、昔からもてていた。
もてないわけがない。

言い寄ってきた男は両手に余るらしい。
どこで知ったか、彼女とは全く別のフロアで勤務していた面識のない男からもプロポーズを受けたという。
それぞれが、デートに誘い、食事をともにし、花を贈り、告白し、玉砕した。

理由なんか俺の知るところではない。
10人も男が寄ってこれば、一人や二人、気になる相手ができても不思議ではなかろう。
その10人を順位付けすればそれなりにランク分けすることはできたろうが、彼女はそのすべてを蹴って独り身のまま半世紀だ。

結婚そのものが嫌なのか、結婚したい相手に本当に出会えなかったのか、理想が別次元にでも設定されていたのか、そもそも男が嫌いなのか、あるいは結婚できない特別なワケでもあったのか。

その当時から俺は彼女のことは知っていた。
部署は違ったが同じフロアで、仕事上、毎日繋がりのある関係だったからだ。だが、関係はそれ以上でもそれ以下でもなかった。
会話もあったが事務的なことのみで、かわいい娘だなとは当然思ったが、だから何なんだという感じに。

男というのは馬鹿だから、かわいい女の子を見ると、男はいるんだろうかとか、ついついそのハダカを想像したり、ちょっとでも気になる相手だったならその娘との邂逅を勝手に夢想したりするものだが、そんなことはなかった。

そのとき付き合っている女が他にいたわけではない。
キャバクラに入り浸っていたり、はたまた二次元に没入していたわけでもない。
俺に好意を寄せていて何かと誘ってくる女はいたが、手すら握らず放置していた。

つまり俺的には、早紀子は眼中になかったわけである。

そのうち俺は彼女の部署とは繋がりのない場所に異動となり、転勤で本社も離れ、結婚もし、彼女は彼女で異動を重ね、存在そのものを忘れていた。

それがなぜ今こうしてサシで飲んでいるのかといえば、俺が希望を出して異動した先の部署に偶然彼女がいて、毎日接しているうちに30年の時を経て、今更ながら妙な興味、そう、彼女のことをもう少し知ってみたいという思いが膨らんできてしまったからだ。

7時ぐらいから飲み始め、すでに4時間。

「そういや、お母さん放っておいて大丈夫なの?」

大丈夫じゃなかったら飲んでるわけないだろう。
会話が途切れたとはいえ、随分間抜けたことを聞いたもんだ。

「歳はとってるけど、まだ動けるからね。買い物は私だけど、材料置いておけば自分で作れるの」
「そうなんだ。それ、いいね。うちのはずっと病院で寝てたから」

俺の母は去年のちょうど今頃、2月の寒い朝に亡くなった。
そういや命日まであと4日か。
まさか病院に駆けつけたあの日に、骨を拾ったあの日に、それから1年後ここでこうして早紀子とサシで飲んでることなんて、想像できなかったろうな。

1年前も、2年前も、そして3年、4年前から、彼女と同じ部署になってから、なぜだか気になっていた早紀子。

俺は結婚しているから早紀子と所帯を持つことはできない。
だが、もし結婚していなかったら。
結婚していない状態の俺が早紀子と再会したのなら。
早紀子と再会し、こうやって二人だけになる状況になったのなら。

どうなったんだろう。

年齢も年齢だ。
このまま一人で老いていく。
嫁はおろか当然子どももなく、没交渉の兄弟や親類。
人知れず腐乱死体が関の山だ。
仮に巨万の富があったとて、フル看護の施設で手厚いサポートが受けられても、それはカネでのつながりだ。
アジアの国からやってきた介護士に下の世話をされ、俺を看取った看護師も30分後には別の老人のことで頭が一杯になっていよう。
それで行き着く先は合葬墓。
そんな最期は容易に想像がつく。

この歳からでも遅くない。
肉体関係でなく、一緒にいてくれるだけでいい。
君のお母さんの面倒も見させてくれとか言って、俺は半世紀の人生で初のプロポーズをしたかもな。

そんな夢想をしたところで現実は当然変わるはずもなく、この短い飲み会が終われば早紀子も俺も、それぞれの家路に就くのだろう。

「そろそろ、出ます?」

11時も回り、帰り支度を促す。

「きょうは楽しかったね」

少しはにかんで見える早紀子。
「楽しかった」というのは社交辞令じゃなく、ちょっとばかりの本心も混じっているのかな。

なんだか古臭い厚手のコートを羽織るのを手伝う。

「ありがとう」

別にどぎまぎするでもなく、だが嬉しそうに礼を言う。

店の前で別れ、それぞれ全く別の方に向かい歩き出した。

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