木星のちょっと先あたりで

 あのとき同じバスに乗ってなかったらとか、そもそも俺が宇都宮に来ることがなかったらとか、あの日バイトの予定を変えられなかったらとか。
 まあ、全部たらればなんだけどね。
 人生が偶然的か必然的かなんて、そりゃ考えたくはなるけど、いくら考えてもわかりっこないし、いくら考えてもわかりっこないことはとりあえずは考えないことにしようって、デカルトのおじさんも言ってたから、考えないことにするけど。
 けど、身の回りの全ての事象に意味を求めようとするのもまた人間ってわけ。なんて、キザっぽいけど言いたい。愛とか敬意とか、そんなん全部脳の電気信号だし進化生物学上優位だったから残った機能だし、でも、それに意味を求めていくのが人間だったはずだと思う。あれ、俺なにが言いたかったんだっけ。
 昨夜、感情がとめどなく溢れてやまなくて寝付けなくて、起きてシャワー浴びたら、全部全部文字にしたかったんだってことに気づいた。キーボードを叩く指先が止まらなくって、だからこれは心から溢れてくる、吐露みたいなものなんだけど、そう言うのってかっこ悪いし、本当は心に秘匿しておくべきなんだろうって思うけど、止まらないんだから仕方ないには仕方ない。
 出会いや別れや始まりや終わりの全てに、意味を求めようとしていたい。意味なんて、ないかもしれないし、あるかもしれないし。だけど求めようとはしていたい。それが文学というものの根本的動機にあたるのだろうし、自分という人間を象ると信じてる。
 生きるか死ぬかとか、始まるか終わるかとかじゃなくて、もっと究極的な思考の淵できみと話していたい。
 だから俺は現世で、そのための言葉と、そのためのジェスチャーを身につけたい。
 たとえば、あの川のほとり、あるいは木星のちょっと先あたりで、きみとずっと話していられるための、ないかもしれない意味を求めていられるための。
 きみと会えてなかったら、みたいな、そんなたらればが意味を持つほどの、日々を、泳いでいけ。

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