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あるいは遠くのエピタフ

 幼い頃は、愛し愛されればいいと思っていた。少し歳を経ると、セックスすればいいと思っていたし、もう少ししてからは自分の表現を確立できればいいと思っていた。
 まるで駄目だ。
 ただDebussyの月の光を聴いているだけで。
 死しか救いがないという人はいるし、それはかつてないほど正しいのだけれど、だけれど必要なのは老練にて華麗な死であって、何かを成し遂げる前の未熟な逃避としての手段ではない。

 ギターを二つも担いで、池袋駅の階段を登ったり降りたりしている。少し馬鹿らしいと思う。
 日曜日の夜の池袋には、ホテルに向かう大学生カップルと改札へ向かってゆく酔っ払いとホームレスとで賑わっている。マッチョと美女となで肩が順に過ぎてゆく。夜職っぽい服装の不健康みたいな細すぎる女が暗がりへ歩いてゆく。
 俺は、彼らがなるべく踏んでいないようなとこを探しながら、こっそりと歩いてゆく。
 けれど、どのタイルもどの場所も既に誰かが歩いたあとで、俺はどうしようもない。次の一歩を踏み出す場は、もう無い。
 絶妙な失望感と無力感が少しずつ湧き出て、でもまだ、完全に絶望できていないことに悲しくなる。
 誰かに成りすましたくて、もっと完璧に溶け込んで悪事を働きたくて、でもそんな技量も器用さもないから、一人でこんな大きな荷物を二つも抱えて歩いている。

 完璧な文章が存在すれば、完璧な絶望は存在できるのだろうか?
 けど、無理だ。俺ひとりにできることが、あまりにも限られている。きっと俺は尊大なものを望んでいたのだ、わかってる、わかってるよ、でも、ちょっと、望んでいたかったし。さ。

 パスモを通すけど、改札は大荷物には狭くって、飯能行きの準急の文字は緑で、そのくせに電光掲示板の終電車の表示はあまりにも赤い。
 どこに行っても人間はいるし。なんでなの。なんでどこに行っても人間はいるの。シマウマとかルリコンゴウインコとか、全然いないのに、どこ行っても人間はいる。

 キリがないのかもしれない。このnoteを愚痴の吐き場所にしても、それも仕方ないけれど、キリがない。
 みんな先へ歩いてゆく。自分だけがまだ、同じ階段を昇ったり降りたりしている。

 少しずつ、ミミズがフルマラソンするみたいなスピード感で、途方もないほど少しずつ、自分が限られていっている。
 限定されていること、限定されていくことは、ひと通り悲しい。

 電車に乗って、隣の人が、恋話をしている。いつのまにか、ものすごく怖くなった。
 準急は、小さな駅を飛ばして進む。俺はその度に、何かを失ってゆく感覚が止まない。
 ああ、そうか。飛ばしてきたのかもしれない。長生きしたくないし、誰とも正しくなれないし、ただ一人の物語かもしれないし、だから、飛ばしてきたのだ。
 確かに、側から見ればただ一人のしがない若者の思い煩いなのかもしれない。だが、俺からすれば本気なのだ。只事ではない。
 でも、それでいいのかもしれない。辞めてしまうより、諦めてしまう方が簡単だし、終電車には乗れたし。
 流していたApple Musicのアルバムのシャッフル再生は、アラベスク1番で止まった。ここが潮時だ。

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