矢代にとっての愛とは

(Discord上での秋川さん、sakuraさんとのディスカッションから自分の部分を転載)

矢代さんはある意味ホモフォビアだと思います。というのも、男同士のセックスは義父と自分との関係でもあるわけで、それを肯定したくない、あくまで今の自分の性的嗜好は義父による虐待から発生したものであるべきだ、と思っているわけです。

もし生来のゲイと認める、つまり男同士のセックスに肯定的な自分を見出してしまったら、義父との関係にも何か肯定的な部分を認めることになる。だから、単に快楽が強いから男を相手に選んでいるだけで、女相手でも勃つし、セックスしようと思えばできる、と自分に言い聞かせる。 自分はゲイではない。義父との関係を絶対に認めない。義父にされたことは自分を傷つけたりしない。自分はそんなものに屈したりしない。だから何度でも繰り返してやる。自分は哀れでも惨めでもない。強い、負けない。 「ゲイではないが、単なる快楽として男と寝ることを楽しんでいる自分」というのが矢代さんが長い間纏っていた鎧で、虐待によるトラウマとの戦いのためのものであった。

でも、例え性的嗜好、快楽という面でそれが成り立っていたとしても、「誰を好きになる」はコントロールできない。矢代さんは「人間」という言い方にしてはいるけれど、男には惚れても女には惚れないんです。男しか愛せない。 「人を愛する孤独を知った。それが男だと言う絶望も。」 ゲイであってはならないのに、男を愛した。 そして彼を愛する自分を、(ゲイではない)その男は決して愛さない。 性的被害によるトラウマへの抵抗としての淫乱とホモフォビア、そして生来の自分としての男性への愛、その間に立って、どうしていいかわからなくなったのが5巻だった。

絶頂の瞬間に義父のことを思い出してしまったのは、やはり例え相手を愛していたとしても男とのセックスに義父を連想させずにいられず、「一番遠ざかりたいもの」と「一番近づきたいもの」が一致してしまった瞬間だからだと思うんですよね。 矢代さんにとって百目鬼を受け入れる、男を愛するということは、つまり義父への拒絶の戦いをやめるということなんです。5巻で寝ている百目鬼の横で絶望した顔をしているのは、おそらくなんとしてでも抵抗したかった、「男を愛する自分」というのを認めざるをえなくなってしまったからだと思います。

なんとなく読んでる側としては、「え、もういいじゃん。そんな義父のことは忘れて、本当の自分を認めて、百目鬼と幸せになればいいじゃん」と簡単に思ってしまうのですが、幼少期の苛烈な性被害を否定し生きる支えとして来たアイデンティティを、最近出会ったばかりでの相手に壊されて、なおかつその相手に簡単に全部曝け出してその先を生きていけるかというと、私は到底そうは思えないんですよね。 だって百目鬼がそこまで矢代さんの人生理解して受け止めてくれるかなんて全く解らないわけじゃないですか。6巻の時点でも、百目鬼は矢代さんのコアな部分については七原の言葉による憶測だけでほとんど何も知らないし、そもそも互いの思いもちゃんと伝え合っていない。ただ1回だけセックスしただけなんです。 結果として矢代さんは「男を愛する自分を受け入れない」方を選んでしまった。

でもやはり心の奥底で「愛したい、愛されたい」という欲は燻っていて、その葛藤にも疲れ果てて、戦い続ける、生きていく気力も尽きて「もう死んでも構わない、むしろ殺してくれた方が楽になれる」と思って平田に臨んだんじゃないでしょうか。

ゲイである自分を否定したい気持ちと、ナチュラルに(男を)愛したい・愛されたい、という二つの想い。この葛藤が6巻までの矢代さんなんだと思います。 7巻以降は、「男を愛する自分」を受け入れられずに百目鬼を捨て、死すら覚悟したにも関わらず生き残り、男とのセックスを快楽とすることもできなくなった。そして、誰かを愛したい・愛されたいという自分から逃れられないことにも、気がついた。だけど、その愛した相手はもう自分から遠いところに行ってしまった(と思い込んでいる)、のが今の矢代さんなのかなと。

矢代さんにとっては、男と寝ることと男を愛するということが全く正反対の意味を持っていて、同時にならないような生き方をあえてして来た。でも、心の底ではそれを一致させられる相手を求めている。それが百目鬼なんだと。

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