08/09-15


8月09日(水) 競走馬の死因はだいたい足

菊花賞という、馬に3km走らせる奇祭があり、去年のお祭りで優勝したアスクビクターモアという馬が死にました、熱中症で。死に方までも奇妙とは。

「奇妙?馬だって熱中症で死ぬことあるだろ」というのはごもっともですが、競馬歴マイナス300万円のぼくでさえ、これまで聞いたことない死因でした。
競走馬の死因ランキングは人間のそれとは重複しません。ていうか生き物によって死因ランキングってぜんぜん違うし、風の噂によるとマンボウや烏骨鶏のランキングなんてひどいらしいです。

個人に限って考えてもランキングは違います。
生き物は何度も死ねないので死因はひとつですが、死因確率ランキングになるとそれぞれ違います。癌になりやすいひともいれば、血圧に問題があるひともいます。フワちゃんのランキング一位が考えられ得る限り最大限残酷な死因ならいいな。

アスクビクターモアの熱中症に関しては、おそらく人災に近いのかもですが、本来ならランキング外だったのはまちがいない。「天寿を全うしての老衰」が一位になるようにスタッフもがんばっていたのだと思いますけど、すべてのランキングは変動制なので。でも、不破だけは固定制で、なんとか。

8月10日(木) かはくとかえる

国立科学博物館のクラウドファンディングに関して、文科省の方がツイートした文章が炎上していました。
思うにアレは「通らない…!霞ヶ関ではこんな雑な議論は通らない…!」という、エリート主義を前面に出してしまったことがいちばんの要因ではないか、と思います。漫画やドラマに出てくる憎まれ役みたいなセリフでいかがなものかと思いますが、これを言いたくてまるで利根川がツイートしたかのような福本構文に改変したのは問題ないでしょう。

ただ、雑な議論と言いたくなる利根川の気持ちもわからなくはないです。金を出す/出さないという単純な話には、そこだけに収斂されえない膨大な雑務がついてまわるのでしょう。

それに、科博のクラファンについてツイートしているひとびとは科博については好意的で、でもその好意はお役所批判とセットになっており、いまの学級委員的価値観が支配するSNS空間では言いやすい、かつ言いたくなる案件だというのもある。
好意が先行すると雑な理屈になりがちですし、科博のことを考えているというより、科博のことを考えている私のことを言いたければ、なおさら。

すこし前に蛙化現象というのが流行っていましたが、あれは「〇〇が好きな私が好き」という現象が冷めた際に、自責から他責へと責任の所在を移動させているだけだと、ぼくは決めつけています。

そして、クラファンしてしまった以上、今後は科博も立ち振る舞いに注意しないといけないので大変です。いまは利根川に矛先を向けていますが、科博好きな方々もちょっとしたかけ違いで「蛙っ…!この科博っ…!見かけによらず蛙っ…!」というように、利根川取りが利根川になる危険性はあるでしょう。


8月11日(金) アメリカ人形

「影にいれば涼しいのでは?」と、始祖の人類でも2日目には気づきそうなことを閃いたので(参考までに記しておくと、一般的に始祖2日目で気づくことは「目を閉じたら明るくなってた」とか「マンモスは大きい」とか「土を食べたらむせる」とかです。7日目には「マンモスに近づくと危なそう」と気づきます。2日目に遭遇した時、気づくのでは?とお思いの方は、ぜんぜん始祖の気持ちがわかっていないです。赤ちゃんをご覧なさい、興味を持ったものに手を伸ばしてなんでも口に入れるでしょう。初見では恐怖さえ覚えないものなのです、むしろ7日目でも早いほうです。ただし!人類進化RTAでは始祖1日目でマンモスを倒すことは必須です。初期サピエンスから最強クラスの始祖を出現させ、即マンモスに特攻させるルートが解析で判明しています。最強というのは肉体的に、という意味であることは論を俟ちません。頭脳型始祖は乱数調整で消しましょう。アインシュタインもオッペンハイマーもノイマンも、原子の世界のことは知っていても原始の世界では野生動物の餌に過ぎません。第四次世界大戦は石と棒で戦っているだろう、って得意げに言い放ったところで、その世界においておまえは人類進化のコンベアを動かせるわけではない。むしろ止めるような真似しやがって。少なくとも始祖の名にはふさわしくないでしょう、核をおもしろおかしく扱うような連中たちは。まぁ彼らはそういうわけでもなかったんでしょうが、悪ノリする彼らの子孫は違います。「オッペンハイマー」は公開されていないのでわかりませんが「バービー」のストーリーからすると#Barbenheimerは生まれないはずで、もはやポリコレ以前に読解力さえないのではないかとも心配になるレベルです。米国人は一からの気持ちで考え直してほしいもの…いや、一からではないな…なにも考えず目に映ればすぐに手を出す赤ちゃん以前からだ。まだおまえたちは、0日目だ!)、屋根の下でぼけーっと待ってて、なんだかんだあって映画を観ましたね、今日は。


8/12(土) ティアラというより軍帽

粗品さんとあのちゃんが配信をやっていて、そのなかで粗品さんが「いまのキンプリなんか誰も見いひんから」と発言していました。
ぼくもティアラのひとりとして反論させていただきますが、キンプリさんのことはティアラがたくさん見ていますし、そもそも粗品さんに関係ないでしょう。性加害問題の渦中にあるジャニーズならなにを言っても許されるということなのでしょうか。

たしかにぼくもティアラのひとりとして「なんでジャニーさんってちんちん咥えるばっかりだったんだろう?お尻には興味なかったのかな?」と疑問を抱きますが、だからといってキンプリさんへの中傷は許せません。
さらに付け加えると「ティアラから『殺しますよ』って丁寧なフリーザ様みたいなDMが届く」とも発言していましたが「丁寧な」って必要ですかね?「フリーザ様」だけで文意は伝わるしキレも良いのでは?変身形態によって口調が変わるから、という配慮による形容動詞なのかもしれませんが、なぜその配慮をキンプリさんにできないのでしょう。

ティアラのひとりとして「また誹謗中傷を繰り返すのでは?キンプリさんを守らねば!」との使命感から、霜降り明星のオールナイトニッポンというラジオを聴きました。相方のせいやさんは不在だったようで、より使命感は強まり、不安も生まれました。

結果的に、粗品さんはティアラがおかんむりになるような発言をしませんでしたが、なぜかふたりいました。粗品さんと粗品さんが。四身の挙のコマンド入力をミスった天津飯のように。
最初は「ひとりは録音、ひとりはリアルタイム」と考えていました。企画趣旨はまったく違いますが、むかし伊集院のラジオでも近い発想がありましたし、リアクションメールを読んでいたあたりの録音側の反応からしてもまちがいないと思いましたが、それにしては間が良すぎるところがありました。

これは推測ですが、もうひとりは粗品さんの物真似をするあのちゃんだったのでは?と、ティアラのひとりとしてご明察を発揮しました。ティアラの頭が立派なのは外側だけではないのです!
あのちゃんは件の動画でもキンプリさんの悪口を言いませんでしたし、もしかしたら、あのちゃんが粗品さんの物真似をふたり分やっていた可能性もあり、ともすれば今回のラジオでキンプリさんの中傷がされなかったのもティアラのひとりとして膝を打つ次第です。

そう考えると、あのちゃんは芸達者なのだなぁ時間もかかっただろうに、と感心しますが、それにひきかえ粗品さんの人間性はいかがなものでしょうか。
キンプリさんを中傷したうえに、ラジオをすっぽかす。相方が不在の時こそ、あなたがラジオを守らなければいけないにもかかわらず。ナッパ戦で悟空がいない時、ピッコロさんは悟飯を見殺しにしましたかね?ラジオを聴きまして粗品さんが、ひとりのナメック星人からふたりに分裂したピッコロさんに憧れているというのは重々伝わりましたが、それはあのちゃんにやらせることではなく自分でやるべきことでしょう!

今日はティアラのひとりとして提言させていただきました。


8/13(日) 死と同時に子どもたちの歓声が

長野市の公園が廃止になった件の後日談を読んでいました。ひとりの近隣住民からのクレームにより廃止されたというアレです。
廃止までの経緯、折衝や対応にも問題はあったようですが、ぼくは最適解を出せた自信があります。ベストとはいえないまでもベター程度の最適解を。

この近隣住民はひとりの高齢者で、ネット上ではいわゆる上級国民なのではないかと言われていましたが、そのへんは真偽不明なので置いときます。確実なのはひとりの高齢者という、変なおじさんであること。そして重要な点も「ひとり」と「高齢者」という属性です。名前はわかんないので、以下、志村(偽)とします。

この手の問題は、どちらかの言い分を100%通すことはない。各自の要望の割合を調整して、程よい落とし所を探る作業が重要となります。
騒音のクレームを発する志村(偽)に対応、公園の存続を求める住人の要望にも対応。面倒な作業ではありますが、今回、どうやら行政はこの点を軽視しており、ただただ志村(偽)の要望を100%通してしまっている。

解を書きましょう。
公園は「廃止」ではなく「一時廃止」とすればよかったのです。そして行政は「志村(偽)が死亡、もしくはこの街から引っ越した場合、公園は即再開します!」とアナウンスすればよかったのです。
ひとりがやめろと言うならば、そのひとりがいなくなると同時に再開するのが合理的だと思います。あの世に子どもたちの声は届きません。

廃止してしまうと再開するのはむずかしいでしょう。仮にできるとしても、おそらくはおびただしい量の手続きを踏まえなければならないはずです。しかし、一時廃止は再開前提の処理ですし、その作業の労力も幾分か省けます。うまくやれば、立ち入り禁止の三角コーンをどけるくらいの労力でいけるかもしれない。

そして高齢者である以上、早ければ数年、長くても十数年の寿命であることが予想されます。志村(真)の早すぎる死を考えると、数ヶ月の可能性さえある。
これなら存続を求める住人たちも、少なくとも今回の結末よりかは納得しやすいはずですし、志村(偽)としても自分が生きているあいだは騒音がなくなるわけですから、苦情対応もクリアできています。

存続派の住人たちは「志村(偽)さえ死ねば…」と思いながら、志村(偽)は「みんなから死を望まれている…」と思いながら、それぞれ生活していくわけです。呪われた村落感が漂いますが、これも長野の風土に合っていると思います。
殺されるわけでもない、退去を命じられるわけでもない、ただひたすらまわりから願われ続けるだけです。偽物の名に違わず、志村(真)とは正反対の扱いとなりますが、引き受けるしかありません。本人はつらくとも、ひとの感情に蓋はできませんし、存続派の視点に立つと、志村(偽)がストレスにより寿命短縮される可能性がある点も好手といえます。

さらには「なにひとつコストもリスクもなく志村(偽)の要望だけを行政が通した」という点も、地域住民たちの感情を逆撫でしたでしょうから、感情回復的なガス抜きの意味もあります。
ひとは喜びや嬉しさだけではなく、怒りや憎しみによってもストレス解消ができますし、むしろ積極的にやりたがるところさえあります。この点も長野の県民性との相性が良いでしょう。

実際、公園のために、それ相応のひともお金も動いているわけで、土地を余らせておくのはシンプルに無駄でもある。
公園を作るのが大変なのは、監督黒澤明、主演志村喬の映画「生きる」を観ればよくわかります。この映画は、志村(祖)が余命宣告され、子どもたちのために公園を作ろうと奮闘しながら残りの人生を生きる話です。今回の長野市への提案は、これの反転型といえる。
志村界も元祖から考えると変わったものです。近隣の子どもたちに笑顔を与えるために生きた志村(祖)、全国の子どもたちを笑顔にした志村(真)、そして近隣の子どもたちの笑顔を奪った志村(偽)。放っておくと、次は全国の子どもたちの笑顔を奪う志村(魔)が現れると思います。

長野市のみなさん、あなたたちの手は血に染まるためにあるはずです。

8/14(月) 林真理子の花園に除草剤を

日大アメフト部はリーグ戦に出場できないとのこと。日大側は出場の意向を示していたが、関東学生アメフト連盟は「おまえらはノーサイドなのだ!」と。

タックル問題の時も思いましたが、日大アメフト部は雑なストレートさが仇になるところがあります。やるにしても、もうすこしうまいやりようがあるだろっていうか。
今回の件も、たしかに連帯責任は可哀想というのはわかりますが、だからといって連盟に対して情で訴えるだけで通そうとするのもむずかしいでしょう。

陳情は陳情でやればいいと思いますが、戦術は練らなければいけません。いま日大アメフト部がやるべきは、ほかのチームの弱みをリークするという情報戦です。
薬物問題は出ないでしょうが、後ろめたい話がないアメフト部は存在しません。後ろめたい話がないビッグモーターが存在しないように。

連盟も日大だけなら拒否って終わりとするのは当然です。しかし、これが複数チームとなると話は変わります。リーグ戦自体は開催したいでしょうから。
さらにいえば、問題の部員が抜けて日大アメフト部は戦力が低下しています。参加できたとしても勝てなければつまらないでしょう。この戦術は、ほかのチームの選手も削ぐことができる一石二鳥な戦術でもあるのです。

政界の狙撃手と評された野中広務は「弱みがない人間はいない」と語り、狙撃手から影の総理まで階段を駆け上がったのです。
相手の弱点を突く。品はないかもしれないが、結果さえ出せるのなら、恥ずべきことだと言い切れるものでもない。そもそも叩き上げであった野中にはその方法しかなかったのかもしれませんし、現状、日大アメフト部の残りのメンバーたちも、問題がないはずなのにあるかのようにされている被差別部落民のようなものです。手持ちのカードが一枚しかないのなら、迷うまでもなく勝負に出るしかないのです。いや、トライするしかないのです!

日大のみなさん、林真理子の血で汚れる椅子を洗い流す準備しといてください。


08/15(火) 子羊以下の食生活

部屋に食べ物のにおいが充満するのを嫌うせいで、できるだけ自宅でごはんを食べることを避けていて、この生活のおかげでコロナ禍の頃は大変でした。「店、閉めてほしいなぁ…命令じゃなく、あくまでも要望だけどね」という悪魔の方法で店のドアに鍵をかけさせていたでしょう。国家!国家!
でも、避けるのを避けるようになりました、最近。

物価が高騰しています。特に食料品の値上げは生活への直接攻撃なので、困っている方々も多いかもしれません。でもこれ、実はぼくの生活にはノーダメなのです。お金に余裕がある、ということではなく、摂取カロリーに余裕があるから。

去年気づきましたが、なにも考えず食べたいように食べると、ぼくは日に3000kcal以上も摂取していたのです。適正は2000kcalほどです。「なんでそんな食い過ぎていることに気づかないんだ」と思うかもしれませんが、それはぼく自身がいちばん強く「なんでだろ?」と思っていますし、引いています。

1000kcalといえば、だいたいラーメン屋の半チャーセットくらいでしょうか。毎日、適正量の食事を摂ったうえに、ラーメンだけじゃ飽き足らず炒飯まで貪り喰っていれば、それは。プラスアルファがでかすぎて死への階段を二段飛ばしで駆け上がってる感じ。古くから伝承される「アルファでありオメガである」という言葉はそういう意味なのです。

そんな日々を過ごしていると、値上げに関しては生活を逼迫させるピンチどころか、生活を改善するチャンスでさえある。ラーメンの半チャーセットの値段って…わかりやすく千円としますが…この過剰摂取カロリーをなくせば、毎日千円が浮いて値上げ分を相殺余裕、あまつさえ健康的になるというオプションまでも。

国の物価高騰対策に文句がある方々は多いでしょうが、ぼく個人はなにも思うところはありません、むしろ感謝。生活を改善するオブセッションを与えるために、もっと粗雑な対策してほしいとさえ思っています。国家!国家!

で、最初の話に戻って最後の話をしますが、家でも食べるようになりました。低カロリーな食事は店で食うと逆に値が張ります。高カロリーなほうが割安です。
とはいえ外で食べることになってしまう機会は多いので、摂取してもいいカロリーには常に余裕を持たせておかないといけません。夜に備えて、朝からブロッコリーをちぎっては食べ、ちぎっては食べ。自炊ってやつですね。
みなさんも文句ばっか言ってないで、ピンチをチャンスに変えるこういう生活を見習ってほしい。オメガでありオメガであるって感じの生活を。

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