愛について

自分の覚え書きとして、約一月寝かせたLNDのこと、ちょっと書いたので(日記帳に)、今月2回目のLOVE NEVER DIE観てから、続きを書こうと思っていたのだけど、その前に軽く。

ちょっと勘違いしていたのだけど、ガストン・ルルーの原作ラスト辺りに、クリスティーヌとエリックの逢瀬があったかと思ってたんだけど、違ったわ。
スーザン・ケイの「ファントム」の方の記述だった。

それで、クリスティーヌとエリック(ファントム)の「愛」に対する認識なんだけど。
というのは、未だに「オペラ座の怪人」の時点での、クリスティーヌのファントムに対する「愛」の意味と言うか向きというか、がどんなに読み込んでもわからなくて、終いには(理解できないけど)愛するようになったんだなと考えるしかなく。
でも、ラブ・ネバー・ダイを観ていくには、何を「愛」したのか、が重要な気がして、ちゃんと考えていなかったことを考えようかなとつらつら思ったわけで。

エリックにとっての「愛」とは、物心ついたときから欲しくて欲しくてたまらなかったもの。渇望と羨望。でも望んでも手に入らなかったもの。
愛とは与えられるものであり、それが与えられなかったから、結果、愛とは奪うもの。になったのだろう。
クリスティーヌにとっての「愛」は与えられるもの。誰かがみんなが自分に与えてくれるもの。
どちらも子供じみた「愛」に対する考えかと。
与えられることを求め、与えられるだけのものと思い、自分が与えるものとは思っていなかったのじゃないかと思うの。
なのに、対「人」ではないものに対しては、二人とも惜しみない愛情を注いでいた。それは「音楽」に対して。

クリスティーヌにとっては、エリックもラウルも、自身が与えた愛に対して、代償とか見返りを求めていたと思う。二人とも愛を与える代わりに「自分を愛して欲しい」っていう。(まぁエリックの場合は「与える」部分がちょっと違うというか、だけど)
脅迫的ではないだけ、ラウルからの愛の方がクリスティーヌにとっては受け入れやすかっただろうけど。そして、一心に自分を見つめるまなざしが好ましかっただろうけど。それでもまだ、自分が相手を「愛している」とする認識は子供の恋愛ごっこの域だったと思う。

エリックの場合は、姿を現す前までは、怖いけれども音楽に対し、自分の歌に対し、愛情を傾けて、一心に与えてくれていた「天使」だったのに、姿を現したら、恐ろしい姿で(でもそこはクリスティーヌにとっては、結果としてはどうでもいいことだったように思う)、それよりも恐ろしい態度で自分を「愛せ」と脅迫してくる。自分に対して「愛」ではなく「恐怖」で迫ってくるのに、どうやって「愛したら」いいのか、クリスティーヌは困惑したんだと思う。
けども、最後の段になって、ラウルではなく、エリックを本当に「愛した」んだよね。この部分は、クリスティーヌの言葉では書かれることなく、ラウルとペルシア人の言葉でしか書かれていない。
だから、余計にクリスティーヌの心が分かりにくいのだけど、恋人の命を取るか、私の妻になるかという選択を迫られた時に、これまでのエリックの半生も多少垣間見、知ることができ、また過去を思い返してみて、エリックが「音楽の天使」のみであった時、彼は惜しみなく自分に愛を与えてくれたこと。とか、音楽に対して、自分と同じように愛を傾けていたこととか、あとその他のこと、が、むき出しになったエリックの恐ろしい顔に見える瞳の中に、見たのじゃないかなぁと。

本当に、自分を愛し守ってきたのは誰なのか、自分が愛を与えるべき、無条件で愛するのは誰なのか、を悟ったんじゃないかなぁと。この瞬間にクリスティーヌは「大人」になったのかな、と思う。
でも結局、本当に欲しかったものが手に入った時、エリックは狼狽して、それは自分が手に入れるべきものではないと思って、ラウルに無理やり押し付けてしまう。
自分が手にしたものが、自分が考えていた以上に大きく重いものだと思ったのか。自分では抱えきれないものだと感じたのか…多分、貰った以上に与えることが出来ないと思ったのか。そういう意味では、エリックはものすごく卑怯だと思う。

とりあえず、二人の愛はそうだったんだろうな、と。

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