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牡牛座14度「干潟遊び」

2018年5月3日20時53分、トランジット太陽が牡牛座数え14度へ入ります。牡牛座数え14度のサビアンシンボルをぎゅぎゅっと五文字くらいに縮めると「干潟遊び」

「♉14干潟遊び」の原文チェック。黒字が1925年ジョーンズ版「Shellfish groping and children playing ゴソゴソ這い回る甲殻類と 遊ぶこどもたち」。青字が1975年ルディア版「On thebeach, children play while shellfish grope at the edge ofthe water. 浜辺で、甲殻類たちが波打際をゴソゴソ這い回る一方でこどもたちが遊ぶ」。これ日本語訳がちょっと大変な詞文なんです。 grope と shellfish の訳が難しい。

手前味噌ながらこれ、当番が3年ちょい前にサビアンシンボル本2冊を同時進行で対訳していた頃のノートです。 画像は1975年ルディア版の方。shellfish は水棲の、殻を持つ無脊椎動物の総称。アサリもアワビも、カニもヤドカリもみんな shellfish 。そしてこれは単複同型の名詞。

市販されているサビアンシンボル本やウェブ検索でヒットするサイトでは「模索する貝と遊んでいるこどもたち」のように訳されていることが多い牡牛座数え14度ですが…「模索する貝って何?」って思いませんでした?

確かに grope は「模索する、手探りする」だけど、 shellfish が grope するとは具体的にどういうことなのか?透視者は何を見てgrope している shellfish だと言ったのか?ということを考えずに「模索する貝」と単語を置き換えただけでは「訳した」ことにはならないんです。

当番がサビアンシンボル本以外で grope という動詞に出くわしたのは「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」でした。煙突飛行粉を使ってハリーとシリウスが暖炉越しに秘密の話をしている。それを妨害しようとアンブリッジ教授が執務室の暖炉から手を突っ込んでガサガサと探る。

ちょっと自分の手でやってみてほしいんですけどね。こう、指を開いて、熊手のようなかたちにする。そしてガサガサーっと手探りする。これが grope という動作。 shellfish がこういう grope をする場合、それはアサリやハマグリではなくて、脚が沢山ある類っぽい。カニとかね。

そうなると shellfish groping は「(あてもなく)模索する貝」「(あてもなく)手探りする貝」ではなく「(あてもなく)ゴソゴソ動く甲殻類」とした方がイメージとしては近い。

なお、shellfish groping は「shellfish を grope している=潮干狩り」ではないです。念のため検索かけましたが、「潮干狩り」は clamming や clam(seashell) digging です。このシンボルで grope している主体は shellfish です。

高校の授業か!みたいな話を延々続けていますが。シンボル云々以前に元の英語が何を言おうとしているのか確かめること、大事なんですよ。日本語で「這い回る甲殻類と遊んでいるこどもたち」と訳してしまうと「こどもが『甲殻類と』遊んでいる」ようにも取れるけど、さにあらず。

ジョーンズ版原文では groping は shellfish を修飾していて、 playing は children を修飾している。ゴソゴソ動く甲殻類がいて、遊んでいるこどもたちがいる。両者が一緒に「いる」けれど、一緒に「何かしている」わけではない。

ルディア版になると、ジョーンズ版のシンボルよりも、この「一緒にいるけれど、一緒に何かしているわけではない」が明確になっている。「浜辺で、甲殻類(shellfish)たちが波打際をゴソゴソ這いまわる『一方で(while)』、こどもたちは遊ぶ」

shellfish は単数形と複数形が同じかたちの名詞ですが、ルディア版シンボルの shellfish は複数形です。どこで判断するかというと、shellfish が三人称で、かつ grope が現在形なのに三単現の s がついていないところ(英文法の授業か!)。つまり、こどもも甲殻類も複数いる。

「アサリもカニもヤドカリもアワビもウニも、硬い殻を持つ水棲の無脊椎動物はみんな shellfish」、「grope はあてもなくゴソゴソ手探りすること、あるいはそれに似た動作のこと」「♉14の甲殻類とこどもたちは一緒にいるけど関わっていない」とりあえず、これだけは押さえてね。

おう英文法の授業みたいな話で12ツイート使ったぞ話が長いぞ当番!気を取り直して「♉14干潟遊び」の番地チェック。牡牛座前半(往路)の、第3グループ(おわり)の、第4度数。第4度数は第3度数と対になる。第3度数は第1第2度数のこども。磯野家で言ったら第4度数はマスオ。

牡牛座前半第3グループの波平は「♉11私だけの花」、手間暇注いだ分だけ「私のもの」になる。フネは「♉12あとで買う」、「私のもの」にしたい何かを求めて下見する。サザエは「♉13資金稼ぎ」、「私のもの」を得るために働いて稼ぐ。ではマスオである「♉14干潟遊び」とは?

この「♉14干潟遊び」はホントーーーに曖昧で難解なシンボルで。原詞読んでも、原書の解説を何度読んでもわかりづらい。5度組の中でこれだけ「所有する」ということからポコッと外れた光景が出てくる。波打際に甲殻類が這っていて、こどもらは遊んでいて、両者は関わらない。

五文字くらいに縮めるときも散々迷って「干潟遊び」。実のところこの解説ツイートする直前まで、どうお伝えしていいか迷っていました。でも本番になれば何かしら道は開けるものですね。このシンボルはこれでいいんです。前の3シンボルからポコッとかけ離れていていいんです。

牡牛座数え11度から15度までの5度組は「所有するってどういうこと?」が共通テーマ。最初の3シンボルはみんなおとなが主人公。花に水をやるのも、ウィンドウショッピングするのも、ポーターもおとな。第4度数に来たら、主人公はこどもなんです。こどもと甲殻類。

こどもはお手伝いでもない限り何かの世話を焼いたりしない。こどもは(お手伝いでも以下略)お買い物もしないし、買い物のために働いたりしない。こどもは遊ぶ。そして対価や世話やとは無関係に、小石ひとつ拾ったら、花一輪摘んだらもう「これわたしの(ぼくの)!」になる。

世話する、買う(ために下見する)、買うために稼ぐ。「何かを自分のものにするためにはそういうことが伴うのだ」というおとなの考えとは別のところにいるのがこどもだ。こどもは浜辺で遊ぶ。そこにはカニやヤドカリもいる。カニやヤドカリは遊びで浜辺にいるのではない。

浜辺にいて、波打際を grope (ゴソゴソとあてどなく這う)しているカニやヤドカリは遊びで這っているのではない。そこで生活している。生きるためにゴソゴソ手探り足探り移動している。貝殻の家を背負って這うヤドカリは、まるで生活のため荷を運ぶポーターのように見える。

ゴソゴソ這うちいさなカニやヤドカリは、自分の生活で精一杯だ。浜辺で遊ぶこどもたちは、生活を背負っていない。生活を背負って這い回るなんてことは、遊ぶこどもたちにとってカニやヤドカリくらいちっぽけで遠い存在だ。こどもたちの親はどこかで生活を背負っているとしても。

ゴソゴソ這うカニやヤドカリと、遊ぶこどもたち。かれらは同じ浜辺同じ波打際にいても、互いに関わり合わない。互いを気にかけもしない。泣き濡れてカニと戯れちゃったりするのは石川啄木であって、こどもたちはカニに自分を重ねて泣き濡れたりはしない。

「何かを『手に入れる』『自分のものにする』ってどういうこと?」がテーマのこの5度組(♉11〜15)において、ポコッと「這う甲殻類と遊ぶこどもがいて、同じ場所にいるけど関わり合わない」が登場する。このシンボルがなければどうなるか?を考えてみよう。

牡牛座前半第3グループから「♉14干潟遊び」を抜いたら、次のようになる。「所有物の手入れをする」「買う前に品定めをする」「購入資金を稼ぐ」「世の中へ立ち向かうために装う」。「何かを手に入れる」ってそういうこと。確かにそうだ。でも、そこには「おやすみ」がない。

牡牛座数え14度のあとに来る牡牛座数え15度もおとなのシンボルだ。こどもはシャレオツなシルクハットとマフラーで装ったりしない。この5度組の中で、14度だけがこども(と甲殻類)のシンボル。世話しない、探さない、稼がないし戦わない。こどもは遊ぶだけ。

5度組の第4度数は第3度数と対になる。マスオはサザエと対になる。このグループのサザエは「金を得るために働く」。それに寄り添い対立するマスオは「休む」。浜辺で遊ぶこどものように、何も背負うことなく好きなことをする。

牡牛座数え14度は「自分が遊んでいるときは、そのあいだ別の誰かが汗水垂らして生活のために這いつくばっていても気にかけずにいていいんだよ」というシンボル。そう想定しないと、このシンボルがこの位置に置かれる意味が本気でわからない。そう当番は考えています。

自分が休んで浜辺で遊び呆けているとき、カニやヤドカリは自分の生活に必死。自分が海水浴に来た浜辺では、海の家で汗だくになりながら焼きそば作っているお兄ちゃんがいる。でも「他の誰かが汗水垂らして働いているのに自分は遊んでいる」ということに罪悪感を持たなくていい。

人間のこどもが帰ればカニやヤドカリものんびり遊ぶかもしれないのだし、海の家で焼きそばを作るお兄ちゃんだって自分の休みには遊ぶだろう。平日、ポーターをして働いたなら、休日は童心に帰って浜辺で遊んだってバチは当たらない。

「欲しい→稼ぐ→買う→嬉しい」、あるいは「手に入れる→その世話をする→嬉しい」のサイクルだけでは疲れてしまう。だって、そこには「休み」がないから。「稼ぐために労働する」「所有物を手入れする」は体力を使う。「欲しいものを得て嬉しい」だけでは疲れは取れない。

「♉14干潟遊び」は牡牛座前半第3グループのマスオ。同じ牡牛座前半の第1と第2グループのマスオズと比べてみよう。第1グループのマスオは「♉4虹の麓の宝」、第2グループのマスオは「♉9きよしこの夜」。

第1マスオは「♉4虹の麓の宝」、そんな棚ボタ的幸運を信じるのはこどもと頭がお花畑の夢想家と恋人たちくらい。それでもいつか見つける、虹の架け橋。第2マスオは「♉9きよしこの夜」、聖夜には誰も働いたりしない。信者はこの世に贈り物として遣わされたイエス様を思い祈る。

クリスマスにはこどもたちは贈り物をもらう。「よい子はもらえるけれどわるい子は鞭しかもらえない」なんて脅されるけれど、大抵は多少わるいことした子も贈り物をもらえる。「もらえるからには自分はいい子だったんだ。自分は愛されているんだ」とこどもはホッとする。

ところで、クリスマスにその生誕を祝われるイエスも「神の賜物(贈り物)」として人間のところへ派遣されてきた。人間が「いい子」だったからではない。神が人間を愛していたから(ということになっている)。人間が「よい行い」をした報酬にイエスをゲットしたわけではない。

イエスは神の愛により「贈り物」として人間のところへ送られてきた。そしてイエスが自分の命を代価として、イエスを信じる人間全員をゲットした。「罪を贖った」というやつね。「あがなう」と打って変換するとわかるけど「贖う」以外に「購う」が出てくる。購入の購ね。

人間が「よい行い」を対価として、イエスという神様の贈り物をあがなった(お買い上げした)のではない。人間はホントしょーもないことをする存在なんだけど、イエスという神様の贈り物が、自分の命を対価として、そのしょーもない人間全員をあがなった(お買い上げした)の。

……少なくとも、それがキリスト教の考えかたであり、クリスマスっていうのはそういうイエス様が生まれたことを偲ぶ日であり、だからこそお休みの日であるわけ。それを得るために自分が何かを支払ったわけでもないのに赦されていること、贈り物をもらっていることを意識する日。

「♉14干潟遊び」は牡牛座前半第3グループのマスオ(第4度数)だけど、第1グループのマスオ「♉4虹の麓の宝」と第2グループのマスオ「♉9きよしこの夜」のこどもと考えることもできる。1がテーマを打ち出し2がそれに添い、両者のいいとこ取りをした3が生まれる。

「♉4虹の麓の宝」そんな棚ボタがあると信じるのはお花畑かもしれない。でもそれは前に進む力をくれる。「♉9きよしこの夜」主は来ませり。我々が彼を贖ったのではない。我々は彼に贖われた。この2シンボルのこどもが「♉14干潟遊び」。稼ぐ必要も購う必要もない。子らよ遊べ。

「働かざる者買うべからず」でもなければ「ものを持ったら手入れをする責任がある」でもない。「♉14干潟遊び」は「それはそれとして、たまにそういうこと全部抜きにして遊ぼうよ。隣で働いているひとが居たって、自分が遊ぶ時間なら遠慮しなくていいよ」というシンボル。

だって結局、花の手入れをするのも、買いたいものの下見をするのも、購入資金を稼ぐのも、「自分を満たすため」だものね。遊びも自分を満たす。物を得るためにはお金や手間を注ぎこむことが必要だけど、自分自身を得る(取り戻す)には「自分に時間を割く」が必要。だから遊ぶ。

生まれたときのホロスコープで「♉14干潟遊び」はどこにある?今日の太陽はそこを照らす。穴埋め #アストロ短歌 で確認しよう。

「○○○○を(五音・ハウス) スローテンポで(牡牛座) 照らしだす(太陽) 干潟遊びに心躍らす」

#サビアンシンボル物語

【♉️14干潟遊び をより深く理解するための比較対象シンボルリスト】
♊14以心伝心(となりのサイン)
♋14闇を見る修行(60度)
♌14俺の歌を聴け(90度)
♍14古い血筋(120度)
♏14電話開通(180度)
♑14歴史は繰返す(120度)
♒14ショートカット(90度)
♓14尻尾は出さぬ(60度)


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