欲が出てきた……かもしれない
「食べたい」「眠りたい」「何か読みたい」「遊びたい」そんな欲はあっても「運動したい」という欲なんて自分には存在しないもの、とつい数ヶ月前までの当番は思っていました。「運動したくない欲」ならある。「じっとしていたい欲」がある。そう思っていました。不思議なことに最近は「運動したい欲」だとか「ジムへ行きたい欲」だとかがあります。食欲・睡眠欲・読書欲に加えて運動欲が湧くなんてどうした当番。
「欲」ではなく「意欲」とか「やる気」とか呼んだ方がいいものかな。うん、「意欲的になった」「運動をやる気が出た」なのだと思います。たぶんよく言われる「『やる気』は『やり始める』と湧いてくる」状態に今やっと入ってきたのかも。
ちょっと思い出話をします。当番は幼児の頃から筋金入りの運動嫌いで、足は遅いし体は硬い、腕の力も腹筋の力もなくて逆上がりはできない、跳び箱が跳べない、ロープは登れない。幼稚園の頃から体育は劣等生。もちろん体育は嫌いでした。「本当に何ひとつできない運動音痴が何かをできるようになるための細かく段階分けした訓練法」なんて体育の授業ではほとんどなかったからです。唯一「本当に何ひとつできない運動音痴が何かをできるようになるための細かく段階分けした訓練法」を授業でやってもらえたのは水泳だけだったと記憶しています。おかげさまで水泳だけはできるようになったし、プール授業だけは嫌いにならずに済みました。水泳だけは、できる子とできない子をダンゴにしてただただ水に叩き込むような指導法では死人が出ますからね。逆に「段階分けもせずにできる子とできない子をダンゴにしてただただコートへ叩き込んでも死人は出ないような種目」では本当に何も! 劣等生への救済策はなかったですね。
まあそんな人生の行きがかり上、当番は筋金入りの体育嫌いです。学校を卒業した途端「『体育』を連想させるもの」は全部自分の生活から排除してきました。卒業後真っ先に体操着を全部切り刻んで捨てましたからね。学校時代のジャージ(体操着)を丈夫だからと卒業後も部屋着や作業着として着る系の人がいるけれど、あれができる人は体育やジャージというものに悪印象がまるでないのだろうなあと思っています。
そこまで運動嫌い・運動に特化した服装が嫌いだった当番が今は日常的に運動着を着て、コンビニジムとはいえスポーツジムへ週に6日くらい(※頻度がジワジワ高まっている)通っているんだから人生本当に何が起こるかわからないものです。腹筋やランニングや逆上がりを拒否して「それができなくても何も困らない」「もしそれができなかったらいざというとき助からないよと言われても、そのときは助かることを諦めるからどうぞ放っておいてください」と長年思っていたはずの当番が、隣で腹筋ベンチやトレッドミルを使っている相客を見て「あれができるようになるにはどう練習していったらいいのだろう」などと思うようになるとは。
いや、今でも「それができないと『いざというとき』助からないよ?」という脅しで人に体を鍛えさせようとする姿勢は大っ嫌いなんですよ。「いざというとき」というものは「体を鍛えている人だけが助かり、そうでない人は助からない/見捨てていい」ような仕組みにしておいちゃいかんだろォ? 「何かあったらお前は死ぬんだぞ」って運動神経のない児童に言って脅すのはおとながしていいことじゃないだろォ? おォん? ……と思うのでものすごく嫌いです。それと、何かと人を急がせて「駆け足!」とか言い出すおとなも当番さんは大嫌いでしたね。こちとら走らなくていいように、まず「急ぐ必要」を生まないような予定を組んで行動しているわけですよ。何なの「駆け足!」って。時間配分おかしいんじゃないの。
……話が逸れましたわね。要は人生の行きがかり上「強いられる運動」や「脅され急かされて行う運動」が大嫌いな当番が、強いられたり急かされたりしなければそれなりに運動を継続できるし、継続していればそれなりに意欲だって出てくるという話です。
「『いざというとき助からない』と脅されること」も「『駆け足!』と命令されること」も大嫌いな当番ではありますが。でも、一昨日読んで「ちょっといいな」と思ったのがフォロイーさんのこの記事です。
「『走れ』とか『逃げろ』と言われた時に、走れるようにしておきたい」。なんかね、言っていることは「走れなければいざというとき助からない」という脅しや、何かというと理不尽にかけられていた「駆け足!」という号令と似たようなものなのに、この「『走れ』とか『逃げろ』と言われるシチュエーション」にイヤな感じはなぜかしなかったんですよね。「脅して人を動かしてやろう」とか「号令をかけて従わせてやろう」とかの意図を感じない。ただ「生かそう」「逃がそう」としてくれている気がする。
あとはね、ちょっとね、「書いている(二次)創作にこういう言い回し、入れてみたいなあ」と思ったんですよね、「『走れ!』とか『逃げろ!』と言われたときに走れるように」。体を鍛えることに消極的で、体を鍛えることの意義にも懐疑的であるような登場人物に、そのひとを護る立場の人が伝えてほしい。「確かに今から鍛えたとしてもあなたが我々あるいは我々の敵ほど強くなれはしないだろう。そこまで鍛えろとは望まない。我々が望むのはいざ事が起きて、我々の誰かが『走れ!』『逃げろ!』と言ったとき、あなたが走りに走って安全な場所まで逃げきるのに足るだけの体力です」
うーん、身を案じてくれる武人にそう言われたらさすがの運動嫌いな主人も走らざるを得ないのではなかろうか。
思えば歴代の体育教師に対してそういう「自分を生かそう、守ろうとしてくれる存在である。身を守る術を自分に教えてくれようとしている人間である」という基本的信頼感を持てていなかったものなあ、と今なら思います。「自分を脅して言うことをきかせようとし、いつも無駄に人を急かし、命令通りにできなければ嘲るだけのやかましい人間」だとしか思っていなかったし、信頼感ゼロでした。体育の先生も「お前そんなではいざというとき助からないぞ」ではなく「どんなことがあっても助かってほしいから走ることに慣れよう」くらい言えなかったものですかねえ。
まあ過去の人に文句を言っても仕方がないので、当番は現在の自分のために、「このひとは心底こちらの身の安全を案じてくれている」と信頼できるイマジナリートレーナーをインストールして運動に励むことにします。筋肉の守護神的な。「あすけんの女」的な。
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