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2017年版ル・フウはあれでよかったんだろうか【思い出語り】

2017年5月21日のツイートまとめ。実写版『美女と野獣』をワクワクと観にいった後で「ル・フウはあれでいいのか(_・ω・)_バァン」していたツリー。ル・フウをガストンへガチ恋キャラにするならするでいいんだけど、あっさり次カレを見つけてガストンの死を惜しむ気配もないのはどうなのよ。

(前提:たまたまアンティークのタロット画像が流れてきた)

あ、愚者(Le Fou)のカードだ。ティンティン丸出し…>RT きのう、ホロ読み会の後お茶飲んでいたときに『美女と野獣』のル・フウについて熱弁してしまったことを思い出す。ル・フウというキャラクターとその名の意味。1991年アニメ版ル・フウが2017年実写版でどう変えられたか。

何度も話してるけれどディズニーのアニメ版美女と野獣が日本初公開されたとき、当番は高校3年生でした。受験を控えた秋だというのに、毎週日曜午前の英語塾が終わると映画館にすっ飛んで行って3週連続で字幕版「美女と野獣」を見続けたアホ受験生です。劇場へ複数回通って観た初めての作品です。

ちなみに、ソフトを初めて買った作品もこれ。当時はVHSでした。字幕版と吹替版は別々に売られていたなんてはるかな昔に思える(実際はるかな昔だけど)。そんなわけで2017実写版は青春の答え合わせみたいな気分で見に行きました。で、ル・フウです。ル・フウの変化。

1991年アニメ版のル・フウは本当に名前の通りのル・フウ(おバカ)なキャラクターなんですよ。ル・フウ(Le Fou)ってまともな人名じゃないですからね。The Foolだから。タロットの0番のアレですから。たぶん彼の本名は別にあって、綽名なんですよル・フウ。「マヌケ野郎」的な。

1991年版のル・フウはそれまでのディズニー伝統のコミックリリーフ、おバカキャラクター、悪の三下的なキャラクターだったんですよ。「101匹わんちゃん」のクルエラの部下とか「シンデレラ」の猫ルシファーだとか「眠れる森の美女」のマレフィセントの部下とかと同じ系統。

あと、悪役というわけではないけど「アリス」のトウィードル兄弟とかね。見た目や表情、声の出しかたもそれまでのディズニー伝統の悪役の部下、三下キャラクターのラインに沿ったデザインだった。丸い豚っ鼻、鼻の下が伸びている猿顔で、目は寄り目で、何かというと舌を出したり目を回したりする。

性格描写もそんなに深くなくて、ただ悪役であるボスについて回って、ボスの役に立とうとしてマヌケなことをやって、ボスにどやされるためにいるようなキャラクター。それが1991年のル・フウ(Le FouでありThe Foolである)だった。

そして2017年実写版のル・フウ。演じるのは『アナ雪』で雪だるまのオラフを演じたジョシュ・ギャッド。吹替版の声は藤井隆。2017年実写版のル・フウは1991年アニメ版のル・フウと違ってときどきガストンより賢い。そしてガストンより繊細。そしてその点が作中でかなり強調されている。

1991年版のル・フウは明らかにガストンと同程度の単純バカ、あるいはガストンに輪をかけた単純バカだという造形をされていた。ああ時代が変わったんだな、もう悪役に付き従うマヌケな三下をマヌケだからと言って悪役がバカにして小突き回すみたいな演出は止めたんだな、と思った。思ったんだけど。

もっともガストンが相変わらずル・フウをバカにして小突き回していることには1991年版でも2017年版でも変わりはない。ガストンはかっこよくて強い俺様と俺様のアクセサリーになりうる美人で従順な嫁さんを得ること以外何にも考えていないキャラクターだから。

1991年版のル・フウは正真正銘ガストンの腰巾着。ガストンをおだて、煽り、またガストンに煽られて野獣の城を襲撃する場面では破城槌をドアに打ちつける村人を得意満面で指揮している。そして城の家具(呪いを受けた使用人)から反撃を受けてガストンと同じくらいコテンパンにされる。

2017年版のル・フウはガストンの「良心」みたいなキャラクターに変えられている。まるで「ピノキオ」のジミニー・クリケットのようにガストンについて回って、暴走を止めようとする。モーリス(ベル父)の語る野獣の城の話、喋るティーカップの話にも耳を傾けているらしい描写がある。

野獣の城襲撃場面では、2017年版ル・フウは松明を手に先導するガストンに付き従いながらもこっそり「ここにも野獣がいる(※ガストンのこと)」と歌う。1991年版ル・フウだったらそもそもそんなこと思いつきもしない。

そして2017年版ル・フウは野獣の城での戦闘場面でやはりボコボコにされるのだが、ガストンに助けを求めて無視されたことをきっかけに寝返る。そしてガストンはおそらく城の塔から落ちて死んだと思しいのに、ル・フウは呪いが解けたあとの舞踏会で新しいパートナーになりそうなひとと出会う。

で。2017年版の「美女と野獣」それでいいのかよ問題。どうやら野獣の城とベルの住む村はそう遠くはない。城で王子に仕えていた使用人のうち何人かは明らかにベルの住む村出身。

2017年版では魔女の呪いは王子と城と、周辺の村にまで及んでいて、村人は城のことを忘れている。配偶者が城に仕えていて呪いに遭い、帰ってこなくなっても村に住む使用人の家族は異変に気付かない。何か忘れている気がするなあ、でも思い出せないなあと思いながら暮らしている。

おそらく呪いで家具にされた使用人側は記憶が地続きなんだよね。で、ガストンに煽られて城を襲撃に来る村人たちの中には使用人たちの配偶者が少なくともふたりは含まれているんだよ。村人側は覚えていないけど、迎え撃つ使用人側は覚えているから内心「あなた!」とか「お前!」とか思うんだよ。

それで結構なドンパチの末に村人は逃げ出すわけだけど、そのほんの数十分後(推定)に野獣がアイラブユーで呪いが解けて、夜明けと共に城中の使用人も人間になって、村人も記憶が戻るわけ。すると村人がゾロゾロお城にやってきて「あなた!」「お前!」と感動の再会をして、お祝いになっちゃうの。

で、ラストシーンで村人たちも使用人も、王子もヒロインもおめかしして踊ってよかったね、で終わるんだけど。よかったね、じゃないよゆうべ誤解からドンパチやった仲でしょうよあなたたちは? 村の衆は魔女狩りみたいにして来たじゃないよ?? 城のひとはボコスカ反撃したじゃないよ??? と思うわけ。

ル・フウから話が逸れたな。2017年版のル・フウは、この最終場面のお祝いダンスで、最初は使用人と思しい女のひとと踊っていたのだけど、パートナーチェンジで男性と踊ることになるの。その男性は前の晩、一緒に城を襲撃した村人で、マダム洋服ダンスに襲われて女装させられた三人組の青年のひとり。

マダム洋服ダンス(マダム・ド・ガルドローブ)呪いでタンスに変えられたオペラ歌手。ひとをおめかししてあげるのが大好きで、抽斗からドレスや鬘やお白粉を出して村のイキッたチンピラ三人組に女装させちゃう。「ほらほらほら〜おめかしなさ〜い♡ホントの自分になりなさ〜い♡」とか言って。

マダムに女装させられたチンピラ三人組は互いの姿を見て叫んで逃げ出したんだけど、三人組のひとりだけ、ドレス姿が満更でもないような素振りを見せていたのね。マダムは彼に声をかけて「いいわよきれいよ〜」みたいなことを言っていた。ル・フウが最終場面で踊っていたのは、その女装チンピラ青年。

で、ル・フウと彼は至近距離で見つめ合って、なんか心通じ合う感じ、いい感じ、みたいな表情を浮かべる。ガストンよりもマシっぽい同類っぽい青年と巡り会えてよかったね、ル・フウはそんなに悪者でもなかったから最後は報われたねよかったね…でいいのかホントに? それでル・フウは幸せなのか?

で。どうも2017年実写版のル・フウはガストンのことを友情以上に、というか、ガストンガールズがガストンに憧れるように好意を寄せているっぽい描写がされている。2017年版のル・フウは女性よりも男性が好きらしい描写もされている。

2017年版ル・フウは単なる噂ではなく公式にディズニー史上初の、明確にLGBT描写のあるキャラクターなのだそうだ。それを聞いてから映画の端々を思い出してみて「ああ、あれはそのつもりで挟まれた演出だったのか」と思った。同時に「でも、まだル・フウ止まりなんだ」とも私は思った。

実写版シンデレラでも、アナ雪でも、実写版美女と野獣でもそうだったんだけど、登場人物に一定数、黒人系のひとを入れている。もう50年前のディズニーアニメみたいに昔のヨーロッパが舞台だからといってオール白人キャラクターでは通せない。

「塔の上のラプンツェル」はほぼ白人キャラクターだったかな。「アナと雪の女王」では戴冠祝賀ダンスパーティーのモブキャラクターに黒人女性がいる。1991年アニメ版で白人キャラクターだったものを2017年実写版で黒人キャストで演じたのは、貸本屋の主人と羽ハタキに変えられたメイド。

2017年版オリジナルキャラクターとして登場したオペラ歌手(例のマダム洋服ダンス)も黒人のひと。それは、21世紀のアメリカの会社であるディズニーがこの時代この社会の中でおとぎ話の映画を作り続けるためにそうする必要があると決めたことなのだろうけれど。でも結局、彼らみんなモブじゃない。

ル・フウだって、マダム洋服ダンスや羽ハタキメイドや貸本屋の主人よりは台詞があるし歌も歌うけれど、結局のところ、モブに毛の生えたようなものじゃない。ル・フウ自体、ディズニーが1991年版のアニメを作るに当たって入れたオリジナルキャラクターであって、元の物語にはいないし。

「パン屋じゃさしつかえがあるから和菓子屋に変えました! 和菓子屋で日本の伝統文化に敬意を表しているから、これで問題ないですよね!」みたいな話に思えるんだよ私には。「モブキャラにマイノリティを入れておきましたよ! マイノリティのこと無視してないから、これで問題ないですよね!」みたいな。

2017年版のル・フウを見てから1991年版のル・フウを見ると本当に徹頭徹尾ギャグキャラのマヌケなLe Fou The Foolだなあと思うし、1991年版そのままのル・フウを2017年のいまナマの人間が演じたら無残ないじめにしか見えないんじゃないかとは思う。

いくら当番が1991年版大好きの懐古厨でも、何がなんでも1991年版がよかった1991年版に忠実にやれ! とは思わない。2017年版は追加曲もすごくいいし、好きなとこ沢山あるよ。モーリス(ベルの父)がね! 2017年版モーリスは1991年版と違って知的なイケオジだしね! 歌うしね!!

2017年版ル・フウが歌う「ガストン」はむしろ「距離感おかしい系ガストンおたくが歌うガストン讃歌」として面白かった。1991年版の「ガストン」は「ガストンにへつらう幇間のガストン讃歌」なの。1991年版「ガストン」は「我らがガストン」だけど2017年版は「おれのガストン」なの。

そうかわかったぞ。私が受け取った2017年版ル・フウの印象は「距離感のおかしいガストンおたく・ガストンモンペ勢としてのル・フウ」なの。「おれのガストン」と書いて「うちの子」ってルビ振ってあるおかんル・フウなの。本当かどうかはわからないよ? 公式にはル・フウの感情は恋かもしれないし。

つまり私の不満は、だ。恋愛的な意味で好きなのにせよ、私が受け取った印象のように「距離感おかしいガストンおたく・ガストンのモンペ的おかん系腰巾着」であるにせよ、裏切られ見捨てられてガストン憎しに転じるでもなく、かといって死んだ(推定)ガストンを惜しむでもなく、ってどうなの? ってこと。

2017年版ル・フウのガストンへの気持ちは、新彼候補ないしは新推し候補と出会えただけでそんなにあっさり埋め合わせがつくものなの?? それおかしくない?? って最終場面で思ったんだよ私。みんながあっさり記憶を取り戻してお祝いしている陰でガストンの亡骸抱えて泣いてたりしなくていいの?

…というように、美女と野獣のことを語りだすと気持ち悪いオタクになって暴走する当番でした、昨日も初対面のひと相手に(今日の半分くらいだけど)語りまくってごめんなさいね。

でもこれだけは言わせて! 1991年版はですねえ、今見ると作画も安定してないし、2017年版より曲数も少ないけど、歌うひとがみんなすごい歌唱力だから! 聴いて! イヤホンして聴いて! ガストンの腹に響く低音、野獣の深いささやき声、ベルやポット夫人の柔らかい声を聴いて!

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