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アセンダントのサインを受け入れたときの話

2024年1月3日のツイートまとめ。発端はアセンダントのサインと日干についての、天海玉紀先生のツイート。

「本人の自覚ないときは「隠れた才能なので、意識的にそういう行動とか技を使うと上達しやすいですよ」的なご案内をしてます。(天海玉紀先生談)」なるほどー!

「アセンダントや日干は無自覚だから、あまり言うとお客さんが怒る」わはは>RPs

当番は長いことかかってアセンダント獅子座を受け入れたけれど、日干の庚辰はたぶんまだ時間がかかりそうだもんな(「庚がイヤだ」というわけではないんですよ。庚を始めとした十干がまだよくわからないから時間が要る)。

当番も長いこと「アセンダント獅子座……獅子座ァ?!」って思ってましたよ。当番が西洋占星術沼に落ちたのが14歳で、長いこと、たぶん20年くらい? 「この私が獅子座っぽい印象を無意識に振り撒いている? うそやん??」って思ってましたよ。

当番の身近にいるガチ太陽獅子座(これがまァ教科書から飛び出してきたかのようなティピカル獅子座)と見比べてみても、「自分も傍から見ればこんな風に獅子座っぽく見られている」というのが信じ難い。アセンダントの度数が獅子座28度だから「もしかして出生時刻が10分違うのでは」とさえ思っていた。

かと言ってアセンダント乙女座の解説を読んでも半分くらいしか自分っぽさは感じない。元々が獅子座28度のアセンダントの4度下に乙女座2度の月があるので、乙女座っぽい第一印象はこちら由来かもしれないし。そこで当番は「じゃあASC何座だったらアナタ納得するのよ」と解説を12サイン分一周した。

一周回ってみると「まあこの中ではやっぱりアセンダント獅子座が消去法的に言っていちばんアナタ(自分)っぽいんじゃないの?」というところに落ち着いた。それが当番のアセンダント獅子座(消極的)受容の第一段階。あと、これが当番の #12サイン試着ツアー の原点。

当番のアセンダント獅子座受容の第二段階は当番がTwitterで活発に発信を始め、そこで知り合った同じ占い語を話すひとたち大勢とオフラインで顔を合わせるようになってから訪れた。アセンダントのサインは自分では無自覚だけど傍からはまるで額に「何座」と書いてあるみたいに目立つという。

キン肉マンの額に「肉」と書いてあるみたいに、当番の額にも「♌」と書いてあるらしい。他のみんなには見えて、自分には見えない位置に書いてあるのがアセンダントのサイン。多くの占いの民にオフラインで会うようになり、「どう?」と自分を見せてフィードバックを受けてみたら、やっぱり獅子座らしい。

「自分が自分をどう思うか」とか「自分は相手に『自分はどんな人である』と見てほしいのか」ということとは別として「だいたいの人は当番を見て『獅子座っぽい』と思うんだな」ということがそれでわかった。他人のフィードバックを受け入れられるようになったとき、アセンダント獅子座を受け入れた。

うーん、ティピカル。実に教科書的。アセンダントのサインは「自分が思う自分」ではない。「自分が『相手からこんな風に思われ受け入れられたい』と願っている自分」でもない。つまるところは「自意識の把握している自分」ではない。「相手が見る自分」だ。キン肉マンの額に書かれた「肉」の字だ。

「自分が思う自分」でもなく「こう思われたいこう扱われたいと願う自分」でもない。アセンダントは他人が、つまりはアセンダントの180度反対側の位置であるディセンダント(7ハウスのカスプ)にいる人達がこちらを見て「額に『肉』って書いてあるひとがいる」と認識するような、そんなものだった。

自分はいつでも「ガワ」の内側にいて、ガワを外から眺めることができない。自分が意識できる自分は「ガワの中にいる自分」。占星術の教科書を読んで「ガワの中にいる自意識が把握している自分像」とだけ「アセンダントのサイン」を突き合わせたら、そりゃあ大体の場合、合わないわけだ。

だって他人は他人であって「自分がこう見てもらいたいかたち」では自分を認識してくれないから。「『自意識の自分はこう』だけど、『他人から見える自分のガワはこう』だよ」という交通整理がついてからやっと、当番は自分の「アセンダント獅子座」を受け入れた。

つまるところは他人の目を借りて自分を客観視して初めて「当番のアセンダントは獅子座、まあ妥当だね」と受け入れた。うーんティピカル。7ハウスあっての1ハウス。他人の目があって初めてわかる自分の「ガワ」の話。

こういう連投をしているときは大体あとでnoteに入れようとしているときです。

【追記】
そんなわけで、noteへ入れました。ヘッダー画像も自分で作りました。連投している途中で「作ったらきっと面白い」と思ったので卵を茹でて作りました。そして「みんなのギャラリー」へ公開しちゃったぜ! これが初めての「みんギャラ」への画像登録。ここに登録した画像は誰もがヘッダー画像に使えます。よければ使ってね。

「アセンダントは『他人から見える自分』であって『自意識が把握している自分』ではない」これが知識としてではなく実感として腹落ちしたときは、まるで天動説が地動説に切り替わったような感覚でした。たぶん、それまでの当番は心のどこかに「『私の思う私が私』であり、『私が思う私』をそのとおりに他人が見ないのは変だ」という考えを残していた。理屈では、知識では、そうではないのだと知っていても、心の根っこ側で「私の思う私が私」だと強く信じていた。つまるところ、当時の当番は当番の主観の世界だけに住んでいたようなものですわ。

「『私の思う私が私だ』という主観の世界はそれはそれで『ある』として、『他人の目に映る私のガワ』というものもまた、あるのだ。それを気に入るか気に入らないかは別として『他人には私はこう見える』というものがあることを知り、それもまた『私』の一部であるのだということを『ある程度まで』受け入れる。『自分の主観』とは別に『他人の目に映る私』がいる。他人の存在と他人の主観を『ある程度まで』受け入れる。それが『自分を客観視する』ということ」

当番にとってそれは、「この大地に立つ私の周りを太陽が回っている」という認識がグルッと反転して「太陽の周りを地球が回っていて、私はその地球から『主観的には私の周りを回って見えるような』太陽を見上げている」へ変わったようなもの。むかしむかし、「宇宙から見た地球の画像」を見るように「アセンダントのサインも私。私にはそれが見えないけれど」に変わった日がありましたとさ。

あまりむかしむかしでもないけれど。当番がこうなったのはたかだか10年くらい前の話だけども(だから、いまアセンダントのサインを「そうかぁ?!」と思う人がいてもぜんぜん大丈夫ですからね。ひとによってタイミングは違うので)。


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