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【記録】1972年のH大学

夫はH大学(これは『動物のお医者さん』の表記による)理学部地球物理学科の学生だった。が、もちろん教養部では文系科目も一定数履修しなければならない。
亀井秀雄先生「国文学」のノートが残っている。いや、正確にいうと、すべての教科書やノートが残っていた。処分したが、これだけは記録を取ってから処分しようと思ったのだ。

よくもまぁ捨てずにいたものだと
中国文学の中野美代子先生のお名前も見える
「国文学」

「国文学」とはいっても、内容はかなり国語学寄り(教養部の「国文学」にはもうお一方先生がいらして、そちらは文学寄り)。そして現在の、いや私が大学生だった頃の国語学ともかなり趣きが異なる。教養だったからか、H大学だったからか、あるいは当時の風潮か。
ノートの最初に評価について書いてある。

「単なる参考文献の筆写はレポートとして認めないぞ」ぞ?
昔も今も変わらないなぁ

(H大学ではないが)文学部国文学科国語学専攻だった私から見ると結構びっくりしてしまう。この並び?

そして、授業は本居宣長から始まったようだ。(それもちょっと意外)

だいたいイメージ通り

それがこうなる。

本居宣長の国学者としての面、時枝誠記博士の言語学の精神面といった「言語とは何か」という方向に進むようだ。そして正直に言うと、スターリンの言語学説、マル学派については何も知らなかった(恥)。逆にいうとつまり、現在日本語学や言語学を学ぶ人間に馴染みのある学問ではない、といっていいと思う。
もう少し紹介。

(この部分を見る限り)語用論や認知言語学が普及していなかった時代はこのように説明したのだな、と思う

バブル経済の頃、大学1年の私もソシュール批判は聞いた。時枝誠記博士(「先生」とか「博士」とか敬称を付けろと教授に指導された)は言語は「もの」ではないと言った、という文脈で現れた。私の方は吉本隆明には続かないのだが、こういう精神が言語に表れる(雑)言語観は続いていたのかもしれない。

H大学でも学生運動があり、72年はもう収まっていたが、教室でもどこでもタバコを吸うし汚いし、まだ雰囲気は残っていたそうだ。時代もあったのだろう。Wikipediaによれば亀井秀雄先生は隆明に共鳴(?)していたようだ。

現在は博物館になっている建物がまだ理学部の教室だった時代。長い髪で、ベルボトム(死語)のジーンズをはいて、8年間このキャンパスにいた若者の本当に若かった頃のささやかな記録です。
トップの写真は彼が晩年眺めていた庭の今年の様子。

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