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【雑談回】石垣萌え

道民の多くは道外からの移民だった。故に自分のルーツをある程度知っている人もいるだろう。私の場合、父は生まれは明治時代クマ被害で有名になった場所にほど近いところで、明治29年三重県長島村から入植した一人が私の曽祖父である。
 
自分が突然身軽になり、いろいろな後処理の to do (have to do)リストを作ったとき、want to doリストも考えた。その二番が現桑名市長島町に行くことである(一番は実家に帰省すること。9年行っていなかった)。
ある日エアドゥのセールで中部国際空港まで片道1万円を切っているのを発見、衝動的に航空券を買い、衝動的かつ計画的にホテルを予約した。
 
さて長島である。
現在は長良川と木曽川に挟まれた細長い島だが、かつては複数の島があった(七島だったのが長島と呼ばれるようになったそうだ)。当然水害に弱く、輪中と呼ばれる防御をしていたが、明治に入って外国人技師によりようやく本格的な治水工事が行われた。その過程で土地を没収され、農地を失った農民の中に北海道開拓に赴いた者もいた。
北海道開拓も相当どうかと思うが当時政府は(以下略)。また、農民にとって農地が手に入るというのは何物にも代えがたいことだったのかもしれない。泊まったホテルに明治20年頃の地図があったのだが、それによると水辺の土地を開墾している。そんな水害一発で水没するところを開墾してどうする、と現代の私は思うのだが、それが農民なのだろうとも思う。
何かと水没するので家の敷地内に水屋を建てた。土地を1,5メートルほど盛り上げたところに普段は倉庫などに使う家? 小屋? を建てておき、住宅に浸水被害が起きたときはそこに避難して水が引くまで住むものだそうだ。
そこまでしてその土地に住むこと自体現代の私は(むむ)と思うのだが、水没する土地は肥沃でもあったのだろう。
 
現在でも海抜ゼロ、あるいはマイナスのこの土地は、住宅地に入ると石垣がたくさんある。石は丸くて、川原で拾ってきたのかな、と思う。大きさが揃っていて美しい。
現在のこの町は私が見た範囲ではコンビニもなく、道路のすぐ横に田んぼ、畑、小川。石垣の上に家。もはや異国情緒あふれる風情である笑
 

長島住宅地の石垣
資料館「輪中の郷」
明治20年頃の地図。この後治水工事が行われる。


その後名古屋城に行き、また石垣を山ほど(文字通り山のような石垣を)見て、気分はすっかり石垣マニア。お城の石垣の石は丸くない。大きさは結構バラバラ。
 

ソリッドな石垣


祖先の地に来たけれど、移住や本家と分家の関係などは複雑である。石垣の旅だったと思う程度でちょうどいいのではないかと思う、何事にも雑駁な道民である。
 
 

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