見出し画像

第2回ー初めて文章化するNYCで暮らして学校に通った6年間ー10代の少女が感じたこと 「新しい家と若い校長先生」

1971年、勤めている商社のNY支店に赴任することになった父親について、私、母、5歳年下の弟は、当時住んでいた埼玉県蕨市を後にした。初めて乗る飛行機では、CAの一人が途中で着物に着かえた。そんな時代もあった。
 
食事はテンダーロインのステーキをベーコンで巻いたもの。映画は「猿の惑星」だった。今でもこの両者はよく覚えている。ジョン・F・ケネディ空港には夜に到着。NYの高層ビルが一番きれいに見えるという橋を渡ったとき、「ニューヨーク」に来たんだと実感した。

向かった先は、ブロンクスの高級住宅街リバーデール。ギリシャからの移民家族が所有する2階建ての家の2階の部分が新しい住まいになった。
 
NYは冬を迎えていたが、室温は壁に備え付けられたダイアルを操作するだけですぐに理想的な温度になった。部屋から部屋へと、床付近に貼り廻られたパイプに湯を流すことで、どの部屋も一定の温度に保つことができた。

広々とした半地下にはそのためのボイラーが勢いよく燃えていた。半地下は洗濯場でもあり、大きな全自動の洗濯機と乾燥機があった。洗濯物は美観を損ねるとして干すことは厳禁。母はこれにはかなり面食らったようだったが、すぐに慣れて、洗濯機の前で本を読んで過ごすようになった。
 
部屋の広さは日本の3倍はあっただろうか。浴室は2カ所。トイレは全部で3か所にあった。キッチンには結局ほとんど出番のなかった大きなオーブンがあった。階下の部屋には別の日本人家族が住んでいたが、なぜかほとんど覚えていない。オーナーは「日本人は部屋をきれいに使うので、日本人にしか貸さない」という人だった。
 
周辺は、大きな街路樹が並んでいて、夏になると緑のトンネルを作った。朝は無数の野鳥の声がした。家から徒歩30分くらいのところには464ヘクタールの緑豊かなバン・コートランド公園があった。

近所の家はどれもレンガ作りの大きな2階建てで、あたりの風景はまるで映画に出てくるアメリカそのものだった。
 
当時はまだ全日制の日本人学校はなく、あるのは土曜日の休校日に教室を借りて開かれる日本語補習授業校だけだった。でも私はそこには通わず、日本人女子も通っているという、カトリック系の4年制の女子高校1本に絞った。場所はブロンクスからはハドソン川の支流を超えてすぐのマンハッタン島。一方、弟が入ったのは PUBLIC SCHOOL 81。あの雅子さんの母校だ。
 
ある日、父親に連れられて入学手続きに学校を訪れた。古い石造りの建物に入り、薄暗い廊下の突き当りにある校長の部屋をノックして中に入ると、30代くらいの、ブロンドヘアー、青い目をした男性が大きな机の向こう側に座っていて、私たちを見るとニコッとした。

父が話していた英語は全く分からなかった。手続きを終え、立ち上がって脱いだコートをコート掛けから取ろうとすると、校長は席を素早く離れて、私にコートを着せようとした。ドギマギしていると、父は言った。「娘はこういうことをされるのは初めてのことだから」と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?