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祈りの夜

先週、インドネシア人の夫が世話人を務めている、
東部バリ島にあるイスラム系児童養護施設のオーナーで
導師でもある男性、そしてデンパサールに住み、
人格者でもある導師を尊敬し施設を支援しているメンバー、
さらに4時間かけて同施設からマイクロバスに乗って
やってきた貧困家庭の小学生15人、総勢40人が
デンパサールの私の自宅に集まった。

主な目的は私が6年前に罹患したパーキンソン病が良く
なるために祈りを捧げる事。いつもの通り、ヒジャブは
被っていないし暑いので肌を露出させたタンクトップ姿だった
私は、祈りがすべて終わって導師が会いに来るまで
2階で待つよう夫から言われた。

程なくしてスピーカーを通した祈りの声が聞えてきた。
息の合ったコーラスのようで、聞いていて何とも心地よい。
自分もその中に入りたいくらいだった。アラビア語、
それも古典アラビア語なので意味はさっぱりだが、美しい
音楽のようだ。

ところで声を揃えて祈ること、モスクから聞こえてくるアザーン
などは(マイクがなかった時代はトルコ、イスタンブールの
有名な「ブルー・モスク」のように天に向かって高く伸びた
ミナレットという塔に登って、お祈りの時間ですよ、
さあいらっしゃいと呼びかけていたそうで、
これをアザーンという)。

「音」はイスラムでは、重要な位置を占めている。節や言葉を
合わせようと集中することで頭がピュアな状態になり、
瞑想状態に入る。その時、神の存在を感じてそれと
向かい合う。アメリカの黒人教会のようでもある。

では、イスラムの歌を聴いたことはありますか?
イギリスのタレントショーで、審査員のサイモン氏が、女性が
ヒジャブ姿で歌うイスラムの歌に涙ぐんでいた。私も
アメリカのタレントショーで準優勝レベルまで残った、
盲目の17歳のインドネシア人少女、プトリ・アリヤーニの
点字を触りながら唱えるコーランの一節を耳にして、
イスラムは多くの日本人が誤解しているように決して強制や
暴力ではなく、その「音」を通して人々の心に届き、
インドネシアの場合、アラブから持ち込まれた絨毯などと共に
人々に受け入れられ信者が自然に増えていったのでは
ないだろうか。

実際、私が25年前から暮らしているインドネシアでは、
イスラムは布教活動はしていない。(アメリカで最も
有名なムスリムだったボクサーのモハメド・アリは、かつて
「ブラック・ムスリム」に対する理解を深めようと
していたが)。

インドネシアで布教活動に熱心なのは人口の1割程度の
キリスト教徒の方で、ドアを叩き、チャリティ活動を
通して教えを説いている。マイノリティなので無理もない
ことだろう。

で、私のための祈りが終わったのは夜の10時を優に
超えていた。いつもは7時か8時には、息苦しさ、
脚のこわばりや背中の痛みが顕著になるため、睡眠薬と
ロキソニン系の痛み止めが欠かせないのに、その時、
感じたのは摩訶不思議、眠気だけだた。

間もなく2階の部屋に導師と夫が入って来た。
私はというと、日本で音楽好きな患者で作る音楽
集団の新作として、パソコンで新しい歌詞を書いていた。
「一人で目覚めたホテルの部屋から見えた冬の街並みが
私に冷たく言い放った。あんたは遊ばれただけ・・・」
とかなんとか。階下の世界とはかけ離れた世界に
浸っていた。(笑)

それを見た導師はあれっという表情を見せた。
「パソコンのキーを打つことはできるんだね。
難しいことを考えることも。寝る前に息苦しくなる
と聞いたが、そんな時は胸に手を当てて、アッラー、
アッラーと心の中で言うといい」これまで何回か
会ったことのある人だが、その健康的な褐色の肌に
50代であろう彼の若さと人の良さから滲み出る
魅力を感じて「いやー、それにしても
導師まだまだ若い、ずいぶんモテるでしょう」と
言いたくなった。

もちろん、それは心の奥に仕舞って「今夜は皆さんの
熱心な祈りが届いたと思います。こんな遅い時間ですが、
いつもの耐え難い不快感はありません」と言って
手を合わせて頭を深く下げた。

今朝、夫は笑いながら私に言った。
「病気のことを特に大げさに言ったわけじゃな
いけど、導師は君が寝たきりで認知症も進んで、
大変なことになっているとばかり思って駆け付けた。
だから普段は養護施設の外では滅多にしない数の
祈りを捧げた。全員、合わせて4,444回繰り返した」と。
そしてこう付け加えた。「ところが、君は導師が来る
ということで小ぎれいな格好をして、
お化粧までしているのを見て僕も導師も驚いたんだ」

身に着けていたのは、いつものよれよれのパジャマ
ではなくて最近買った真っ赤なブラウス、もちろん寝る
準備に入っていたのでメイクはしていなかったが、
肌がやけに明るく艶っぽく見えたらしい。
記憶を呼び起こしながら書いていた恋心を歌った歌詞の
せいだろうか(笑)。

でも息苦しくなる時は、明日の朝には冷たくなっていると
さえ思う。それほど私自身だけじゃなく、
傍から見ていても「どうしよう、どうしよう」という
気分になる。これは胸の筋肉の固縮によるもので、
肺に異常はないため、酸素濃度は100%に近く、
心臓も普段と変わらない。まるで何かに蓋をされたような
気がする喉も実は正常だ。医師の顔を見たら収まることが
多く、不安によるものだということは分かっている。
でも、その最中は溺れるような恐怖心を感じる。

パーキンソン病は気の持ち用とも密接な関係が
あることを思い知らされる。だから今度そんな症状が
出たら、録画して導師に見せようということになった。
「なーんだ、大したことないじゃない」とは思われたく
ないからね。夫と二人で顔を見合わせて笑った。
あれからまだ録画をとる機会には恵まれていない。
 
 

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