正義は地味でコスパが悪い

私は毎日憤っている。
ずるいことや悪いこと、無神経や優しくないこと、残虐さ、沢山のものが溢れていて、その上、案外それらを持っている人の方が早く評価されて上手いこと人生を送っていくことに憤っている。
例えば昆虫食とかもそう。
それが本当に安全なのか、どうすれば正しいのかじっくり考えているうちに何も考えない人が第一人者のようにそれでキャラ立ちする。
知識がないと自分の行動がどんな影響を及ぼす可能性があるのか考えられないから、まるで安全性の保証されていない派手なパフォーマンスだってできる。
悪いことや適当なことは無限だけど、正しいことは有限だから、正義はいつだって地味なんだ。
もちろん、考えなしに飛びつく人が全く不必要なわけではない。慎重なばかりでも味気なくて伝わっていかないこともある。バランスと順番が大事だ。
たくさんの時間をかけて地味なものを作る正しさは大抵結構負ける。
何も考えずに自分のことだけを考えてやった人々が上手くいけば、それが正しいとされるけど、私はそれをとてもリスキーなことだと思う。削ってはいけないたくさん考えるという時間をショートカットして本人の中では成功したとしても、そのやり方が広まればどこかには歪みがでる。
必要な鉄骨を何本か抜いたマンションは安く早くできるかもしれないし、問題がなければいいように見えるけど、必ずどこかでは取り返しのつかない問題がおきる。
取り返しのつかない問題が起きた場合、コツコツと正しい努力を重ねていた人が勝ったと喜ぶかというとそうではない。
自分の人生の一部を削って正しさを追求したのはそういう問題を起こさないためだから。
多分、そんな時でも一番悲しむのは本当に頑張っていた人だ。
自分達に力が足りなかったから、こんなことになってしまったとすら考えるかもしれない。
でも、そんなことあるはずがないんだ。
同じように正しいことについて考え抜いた二人が努力して、競争の末に才能だとか頭のキレだとか、たまに容姿だとかで負けるのは仕方ないことだけれど、倫理観がなかったり、考えていなかった奴が考えていなかったが故に勝つことばかりだとそうしないと勝てない世界になってあんまりではないか。
悪いことや考えないことはドーピングやショートカットでドーピングで勝つ奴が悪いに決まっている。実力の差なんかじゃない。

物心ついた頃から正義感をギュッと丸めて作った弾丸のような子供だった私は、正義が必ずしも行われないことにずっと傷付いていた。
いじめの一環で学校新聞に落書きをされた子がいた時、担任の先生は「誰だか名乗り出てください!」と言った。だから、学校新聞の前で少女に似つかわしくない下卑た笑い声をあげて何人かで盛り上がっていた少女たちの名前を後でこっそり告げた。
担任の先生は「それは知っている」と言った。
自分から名乗り出て欲しかったのかもしれない。でも、相手は悪いことする奴だ。一番に誰を守るべきかなんて明白じゃないかと絶望した。

その後も幾度となく納得の出来ないことを目の前にして、無力で陰キャの小さな子供だった私は正しい人を正しい。間違っている人を間違っている。と言える発言力が欲しいと思った。
正義が地味でコスパの悪いものなら、私がその隙を少しでも埋めるブースターたりたい。

コツコツ正しく頑張ってきて、一介の学生にしてはまあまあの拡散力だったり、発言力だったりを手に入れたと思う。
多くの人を圧倒して説き伏せるような、私のファンだけで結果を変えることができるような強いものではないけれど、応援された人が心強く思うくらいの発言力はあると思う。
世の中どうしようもないことはたくさんあるから、正しい方が負けることはある。
負けた時に純粋な人々が正しい努力なんて無駄だと腐ることなく、少しでも楽になったらいいとそれだけだ。
腹わたが煮え繰り返るような悔しい思いをして、でも、当事者が怒っていると見当外れに馬鹿にされることもあるし、妬み嫉みと勘違いされることもある。
そんな時、代わりに誰かが激怒していることでかえって落ち着けることはあると思う。
私は正義を司る神様じゃないから、間違えることもあるだろう。それでも、私は私情を持ち込まず、一つ一つ誠実に考えて判断して、間違っていた場合はしっかり認めて篠原かをりの名を背負って謝る。完全な正義なんてないから、一人一人が考えることが大切なんだ。
それが嫌いな奴だろうが大好きな友達だろうが、私はその時正しいと思ったことをバラバラに考えて寄り添いたい。
正しいことを正しい、間違っていることを間違っているというために手に入れた発言力なのに発言力があるからずるいと言われることもある。
でも、最初は同じ赤ちゃんとして生まれて、何もない私が目的のために頑張っただけなのにずるいってことはない。

私の知人に虚偽や不正でチャンスを掴んだ人がいる。後でその虚偽や不正をバラしても必要とされる人間になりたいと言っていたが、最後で辻褄を合わせることはできないと思う。それで掴んだチャンスは真っ当に努力をしていた人の分だったかもしれないチャンスだからだ。それに一番悲しいのはそれが虚偽や不正をなくした状態でもつかめていたかもしれないチャンスを自分の手で偽物に代えてしまったことだと思う。一瞬の利益に目が眩んで自分自身をそんな傷付け方する人がいたら、それがどんな人であれすごく悲しいことだ。それでもいいと心から思えるタイプの人なら批判される覚悟をしながらやるしかない。悪いことを絶対にするなと強制できる力は私にはない。私は私の価値観のもと、悪いことは悪いと言い続けるだけだ。
もちろん私と違う価値観の誰かが自分の利益だからとか友達だからといった無関係の要素抜きに真剣に考えた正しさならそれも尊重されるべきである。
正義をどこに置くかはすごく難しいから、自分で考えて責任を負う覚悟をするしかない。

正しいことはコスパが悪い。
正しいことは報われないかもしれない。
見ていてくれる人すらいないかもしれない。
でも、私はすごく美しいことだと思う。
どんなに容姿が悪かろうが、嫌われていようが、地位がなかろうが、あろうがそれは美しい。
前はずるいことや悪いことをしてたり、無神経であった人だって今から行った正しいことは一点の曇りなく美しい。
いつでも生存戦略をかえられるのが人間の武器だと思う。

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