ショスタコーヴィチ《ムチェンスク郡のマクベス夫人》
こんなに不愉快になるオペラは久しぶりだ。しかし、見終わったあとの心にずっしりときつつも爽快な気分になるある種の「カタルシス」感は、《アイーダ》や《リゴレット》など、私が名作と考えているものを観たあとのそれと同類のものだった。
印象に残ったのは、ジノーヴィ殺害後のセックスシーン、意図的な音楽堂と物語のズレ、そしてマリス・ヤンソンスの楽しげな指揮。
ジノーヴィ殺害後のシーンは、「見つかってはまずい」というドキドキが愛情のドキドキを強めているのだと感じる。よく愛と死はセットで語られることが多いが、この作品を観て納得してしまった。むつかしいことを書こうと思えばいくらでも書けるテーマではあるが、そこまで明るいわけではないのでやめておく。
また、セルゲイがカテリーナの部屋に忍び込んできたときのセックスシーンが激しくて情熱的だとしたら、このシーンはもっと官能的で湿度が高い。光の使い方などの演出の効果もあるが、何より歌手の演技力によるところが大きい。死体を隠し終わったあと「キスして」とセルゲイに迫るときの救いを求めてすがるような表情や、やっとセルゲイを手に入れたというカテリーナの「安堵感」の表情はカテリーナが乗り移っているようで、エファ=マリア・ウェストブロークの演技力に驚いた。ちなみに、彼女はドキュメンタリーでカテリーナのことを「私」と複数回呼んでいる。
音楽と物語のズレに関しては、ボリスのシリアスなシーンにおもちゃのような音楽が組み合わされるなど、おそらくショスタコーヴィチが意図的にズラすことでアイロニカルな雰囲気をつくり出そうとしたのだと思う。それも極端なくらいにギャップをつくっており、それが強いインパクトにつながっていた。
マリス・ヤンソンスに関しては、今年のウィーンフィルニューイヤーズコンサートで指揮をしていたときから気にしていた。この《ムチェンスク郡のマクベス夫人》では間奏曲の部分はオーケストラのみという演出をしていたため、マリス・ヤンソンスの指揮がクローズアップされる。そのときの表情の豊かさや弾むような身体の使い方があまりに楽しげで、つい目を奪われた。ヤンソンスの他の演奏も聴いたところいまいちピンとこなかったので、どうやら私は彼のことをコンダクターというよりもパフォーマーとして好きらしい。
ふと、モンテヴェルディやモーツァルト、ワーグナーと今までいろんなオペラを観てきて、ずいぶんと遠くまで来てしまった感じがした。オペラらしきものが生まれてからそこまで時が経っているわけではないが、その変化は目まぐるしいものだったのだと実感した。