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自己紹介

初めまして。株式会社Hosta代表、そして合同会社ウワノヒト代表の中山香織と申します。商品開発のプロとしてコンサルタントをする傍ら、愛媛県南予地方で地域産業を盛り上げる会社を運営しています。

さまざまな活動に携わる中で、自分を語ることの重要性をひしひしと感じています。改めてここに自己紹介を綴っていきたいと思います。

中山香織の人生観

どんな子供時代だったか

私は中山家の長女として1979年11月に鎌倉で生まれました。父が3人兄弟の長男、母が3人姉妹の長女ということで両家にとっての初孫。1歳の時にはホールのバースデーケーキを用意してもらい、ケーキに手を突っ込んでいる写真が残っていました。たくさんの大人に甘やかされて、穏やかでのんびりした性格のまま育ちました。

子供時代は本当に内気でお友達も少なかったような記憶があります。そんな私を心配して、母は自宅で書道教室を始めました。私の同級生何人かを集めて週に1回、書道を教えてくれました。その書道教室に通っていたうちの2人が今でも私の親友です。母には感謝してもしきれません。

小学校では毎日のように作文を書くように求められたり、1日1テーマについて調べて1枚にまとめるという宿題に苦戦をしていました。何を書いていたかはさっぱり思い出せませんが、文章を書くことがそこまで苦手ではないのはその頃のおかげだと思っています。もっと継続していればよかったなとも反省中笑。

中学生になって成績が5段階評価になり、自分は少し人よりも勉強が得意だということに気づくようになりました。この頃もまだそれほど社交的ではなかったものの、先生がいろんなことで私に仕事をさせるので「〇〇実行委員長」のような短期的な役目を任されることが多かったです。ピアノが得意だったのでコーラスの伴奏もたくさんしました。今から思うとあんなに下手だったのによくやっていたなと思います。

受験を控え、母から勧められた外語短大付属高校を目指し、できる限り自分で勉強をして合格することができました。英語は得意ではなかったけれど、外の世界に触れられる気がして一生懸命勉強していました。あまり社会に出て役立つことというよりも自分の興味が最優先で進路を選んでしまいましたが、高校進学でこの高校を選んだことは私にとってものすごく大きな一歩だったと思います。

刺激にあふれた外語高校時代

神奈川県立外語短期大学附属高等学校(以下外語高校)は全県学区の高校で、神奈川県に住んでいればどこからでも受験できる高校でした。今は残念ながらありません。

4クラスのうち男子がいるのは1組だけ。1組の残りは帰国子女枠で受験した人が割り当てられるため、海外経験のない私はもちろん女性だけのクラスでした。制服はなく着るのは式服と呼ばれ、普段は着なくてもOK。朝のホームルームはないので、1時限目の教科の先生が教室に入ってきたら授業開始。チャイムすらありませんでした。

外語高校ならではの言葉に「隠れ帰国」というのがありました。正式な帰国子女枠ではなく一般受験で入学した、海外居住経験のある同級生です。英語の授業は週に多くて10時間、第二外国語が3時間。隠れ帰国の同級生も多くレベルの高い授業になり予習復習しないと全くついていけないため、毎日のように勉強していました。

私がその中でも面白いと思ったのがフランス語です。フランス語自体というより、フランス語を教えてくれる先生のユニークさだったのかもしれません。教科書通りなんて全然進まないし、脱線した時のフランス文化の話が本当に面白くて、漠然とフランス語をもっと勉強したいと思うようになりました。中学校時代ほど成績順位は高くなく、自分が平凡だと気づき始めていたころだったので、少し現実逃避をし始めていたというのが実情です。

勉強以外ではテニス部に所属して毎日汗を流していました。登校に1時間以上かかる学生が多いので、18時には完全に校舎を出なければいけません。テニスコートは短大のテニス部と共同で使用するため、部活があるのは月・水・木・土の4日だけ。私にはとてもありがたいスケジュールでした。

部員は帰国子女の人が半分くらい。雰囲気はインターナショナルな感じでした。みんながファーストネームで呼びあうようなコミュニティにいたのは、私にとってはテニス部時代が最初で最後だったのかも。彼女たちといろんな話をする中で、海外で暮らすことと日本で暮らすことの間にさまざまなギャップがあることを知りました。思いもよらないことが彼女たちにとってストレスになっていたりして、異文化交流ってこういうものなのかと肌で感じる良い機会だっと思います。

もともとあまり人付き合いが得意ではなかった私ですが、外語高校はその開放的な雰囲気から私の性格すらも変えてくれたのではないかと思っています。そして異文化体験をしてきた同級生の話を聞くことで、先入観なく他者の話を聞くことが当たり前になったことも非常に大きな出来事です。外語高校の同級生たちは今でもみんなパワフル。退職後にあった同窓会に行った時にまだ無職だった私をみんなが励ましてくれて本当に力になりました。思い切って学区から飛び出して外語高校に通うことができて本当に良かったと思います。

ひたすら一つのテーマを追い続けた大学時代

フランス語を学びたいと思うのと同時に、当時父の事業の関係で家計が少し厳しくなってきたこともわかってきていた私は、横浜市立大学の国際文化学部に進学しました。都内の有名大学も受験したのですが、田舎者の私には大学生の先輩方が恐ろしく見えてしまい、人も環境も穏やかな雰囲気だった横浜市立大学を選びました。

欧米文化学科は「おうべい」と呼ばれ、学生は40名程度。とてもこじんまりとした学科でした。その中でも英語、フランス語、ドイツ語と専攻が分かれるので授業も少ない時は2人と贅沢な限りでした。私はフランス語学ではなくフランス文化を選択し、これまた個性的な教授陣の授業を楽しく受けることができました。一度、経済学部の授業を申請して受けたことがあったのですが、世界経済の話に全くついていくことができず2回ほどで諦めてしまいました。世捨て人なのではないかというくらい趣味の勉強ために大学4年間を費やしてしまったことは少しだけ後悔をしています。

2年生の夏休みに体調を崩して入院をしました。病院で絶対安静を言い渡されながら、前期のレポートを必死で作成している最中、母に図書館で借りてきてもらった本の中に「藤田嗣治」という人の絵がありました。エコール・ド・パリと呼ばれる時代にパリで活躍した彼の作品は非常に日本的な表現の仕方で目を惹かれました。その時のレポートのテーマは「パリ」に関することを調べて書くことだったのですが、私は1人の日本人画家に辿り着いてしまったのです。最初は藤田がどのようにパリでデビューし、活躍していったのかということに注目していましたが、調べるうちにエコール・ド・パリ以降の藤田の人生にも興味を持ち始め、ついにその翌年単身でパリに乗り込み、拙いフランス語を駆使して現地の本屋を巡っては藤田の本を購入して帰りました。ちょうど2000年になったばかりの冬のことです。

藤田の人生についてここでは詳しく書きませんが、世界的に認められたにも関わらず、第二次世界大戦で従軍画家として人々を扇動したして日本の美術界から追放され、戦後フランスに渡りそのまま亡くなりました。没後50年間は親族に著作権があり、なかなか日本では大きな回顧展が開催されることはなく、美術の教科書にもほとんど載っていませんでいた。彼は常に異文化交流の真ん中にいて、それでいて日本人としてのアイデンティティをより鮮明に打ち出して絵を描いていたのではないかと思います。彼の人生を追いながら、海外で生きることの難しさを知り、日本で生まれ育ったことの有り難さを感じました。表面的なことだけにとらわれず、その本質について深く考察できるようになったのは、経済活動を追わずただひたすらに興味に従って勉強した4年間の成果だと思います。

社会に出るまでの22年間を振り返るととても恵まれた生活だっと感じます。(その後が恵まれていないわけではないです笑。)人との関わりを通じて、自分と他者は違う背景や考えを持っているということに学生時代で気がつけたことは大きいと思いました。特に言葉ではなかなか説明しきれない「異文化」を理解することの難しさを感じ、また自分の日本人としてのアイデンティティというものを強く意識し始めました。私は日本で日本に生きる人の役に立ちたい、だからこそ外の世界を知る必要があると考えていたのかもしれません。まだ適切な言葉ではないけれど、これが中山香織の中心にある思想なのだと思っています。

中山香織の仕事観

アルバイト時代

高校時代のお小遣いは月五千円でした。市外の高校に通うには少し心もとない金額でした。そこで私は近所のコンビニエンスストアで週に1回レジ打ちと品出しのアルバイトをすることになりました。ほぼ最低時給だけれどレジを打つのはとても楽しく、アルバイト仲間はいろんな年代の方がいて、ただただ楽しかったです。

その後、大学生になりさまざまなアルバイトができるようになったので、塾のチューターや横浜スタジアムの売店のアルバイトをしました。しかしそれらは時給が高く一見華やかなアルバイトに思えたのですが、結局コンビニのアルバイトの方が楽しかったので近所のセブンーイレブンのアルバイトの面接を受けました。そのオーナーさんとの出会いが衝撃でした。

「あなたは家庭教師でもなんでも時給の高い仕事ができるでしょう。うちでレジなんか打たなくていい。私たちは地域で1番のコンビニにならなくてはいけない。地域で1番の接客ができますか?」

こういった趣旨の話をされました。後で聞いたら本当に断ろうとしていたみたいです。学歴の高い人はコンビニの仕事なんてできないだろうと思ったと話してくれました。私はコンビニのレジを打つのが大好きで面接に来ていたのでそれを説明し、とりあえず雇ってほしいという話をしました。そして無事にセブンーイレブンのアルバイトをすることになります。他のチェーンのコンビニバイト時代にはなかったOFCさんとの関わりや毎週のように新規商品が発売することにワクワクし、次第にコンビニエンスストアについて興味を持ち始めました。

セブンーイレブンの人気カップラーメン「一風堂」「すみれ」が発売されたのは大学3年生のこと。いつもはおにぎりとかを食べるパートさんたちがみんなでカップラーメンを啜っていました。とにかくすごいカップラーメンなのだと力説され、売り場に大量陳列して声かけして販売した記憶があります。世の中の流行り物はなんでもセブンーイレブンにあったような気がします。

従業員の働き方も私にとっては画期的でした。作業割り当てという役割分担表があり、時間ごとに誰が何をすべきかを確認して作業が終わったらチェックを入れていました。誰が何をやるか最初は店長が決めていましたが、慣れてくるとだんだんアルバイト同士で話し合って決めるようになり、ひとつの仕事をみんなで完成させる楽しさを学ぶことができました。前後のシフトの人たちとも状況を共有し、前のシフトの人ができなかったことは自分達がカバーし、自分達に余裕があるときは次のシフト中に行うことも前倒しでやっておく、逆にできなかったことは次のシフトの人にお願いするなどコミュニケーションが円滑になりました。結果、チームワークになってよりお店に活気が出たように思います。

アルバイトで貯めたお金と親からも少し援助してもらい、パリに1人で旅行に行きました。勝手がわからない中、旅行ガイドを熟読し、往復の飛行機代とホテル、空港とホテルの間の送迎がついたパッケージツアーを予約しました。食事や観光は1人でなんとかしなければならない中、フランスの商店の不便さに驚きます。当時は日曜日は一部のカフェやレストランを除いて商店は休業します。平日も夜8時には全て閉まってしまうため、街は非常に暗くて女性には歩きづらかったです。その時に改めて日本のコンビニってすごいんだなと実感しました。パリで買うサンドイッチは大きすぎて食べきれず、昼食と夕食がそれで済んでしまうこともありました。本屋などの商店は挨拶をして入らなければ外国人とわかっていても相手にしてもらえません。ありがとうをいうのはいつも消費者の方です。高校時代に話としては知っていた異文化の洗礼を受けました。鈴木名誉顧問が当時のインタビューなどで「小売はドメスティックなもの」とおっしゃっていましたが、全くその通りなんだと肌で実感した出来事でした。外の世界を知ってより日本的なものに興味を持っていく、研究テーマと同じ流れになっていきました。

就職活動を始めた頃は、まだ欧米への憧れもあってメーカーや商社を受けていたのですが、当時は就職氷河期で特に取り柄のない私はなかなか2時面接に進めませんでした。小売業に興味はなかったのですが、セブンーイレブンだけは受けてみたいと思いエントリーをしました。フランスでの話はしませんでしたが、自分がアルバイトとして感じたことを素直に伝え続けた結果、無事に内定をもらいました。私はあまり就職活動に熱心ではなくそのお作法も知らなかったのでオーナーさんにひとことも相談していませんでした。OFCの方には後から少しだけ嫌味をもらいましたが、オーナーさんも仲間もみんな喜んでくれました。

大学の授業の中で経済や経営について勉強する機会はなかったのですが、アルバイトを通じて仕事の中で重要なことを教わったと思っています。オーナーさんの姿勢、仕事の進め方、コミュニケーションの重要性、全てがこのアルバイト経験に詰まっていたと感じています。

セブンーイレブンの現場勤務時代

セブンーイレブン・ジャパンはなぜか3月入社でした。同級生がまだ遊んでいる中、地獄のような研修を経て入社式。制服を着てグループの新入社員が会社別、男女別に整然と並びスケジュール通りに進む入社式をぼんやりと聞いていました。そんな私の近くでテレビ取材のカメラがこちらの方を撮っていました。一つ隣の女性がとても可愛らしい顔立ちの子だったので彼女を撮っていると思い、極力カメラは見ないで前を向いていました。入社式の後、テレビニュースで流れた内容を即スクリーンに映してくれたのですが、どうやら隣の子ではなく正面をガン見している私の顔を抜いていたらしく、かなりドアップで数秒映っていました。家族の元には私がイトーヨーカ堂に就職したのかと問い合わせがあったそう。当時はまだセブンーイレブンはイトーヨーカ堂の子会社でした。ぼーっとせず前を向いて良かったと思ったのは束の間。そんなことには構っていられないほどの激動の新入社員時代が始まります。

最初の配属は川崎の店舗でした。当時のマネージャーと上司である担当OFCさんとはその後長い付き合いになりました。学生気分、アルバイト気分がまだまだ抜けない私にとても前向きな言葉をたくさんかけてもらいました。「行為を変えれば数字は変わる」というのが彼が最初に繰り返し教えてくれた言葉です。売り場を変えれば売上が変わる、発注が変われば売上が変わる、当たり前のことですが商売の基本として肝に刻んで、店舗の業務の傍ら毎日毎日仮説と検証を繰り返しました。

仕事自体はとても楽しかったのですが、今の体型からは考えられないくらい細くて弱かった私の体は悲鳴をあげてしまい直営店勤務と事務職を行き来しながら最初の5年間を過ごしました。事務職はマネージャー職の方の補佐としてデータ分析をさせてもらいました。それ以外に細々と雑用もしました。普通には接することのできない上司と昼食や店舗周りに同席する中で、始めて社会人としての基本である挨拶やマナーを叩き込まれました。できない自分が情けなかったけれどとてもありがたかったです。

また、神奈川県の営業職を統括していた上司からはまだ会社が大きくなかった頃の苦労話も聞くことができました。クリスマスケーキの納品数が増え、業者さんが時間通りに納入することが難しくなってしまった日、上司はとある製パンメーカーの納品トラックを追いかけて納入業務を手伝っていたそうです。誰に指示されるわけではなく、お店に来るお客さんにとって何が一番大事かを考え、それを行動に起こすという上司のエピソードにとても感動したのを覚えています。一部の報道では本部とお店との確執が取り上げられることはありますが、大半のOFCさんはお店のオーナーさんと仕事として求められる以上に大きな信頼関係を作ってお仕事をされていると思っていました。その上司はある時お店に早く着いたので駐車場に車を止めて少し仮眠と思ったら夕方まで寝てしまったとのこと。なんで起こしてくれなかったのかとオーナーさんに聞いたら、疲れている顔を見ていたから起こせなかったと言われたそうです。現場時代お手伝いに行ったお店では非常に人間らしいお付き合いをさせてもらいました。その経験が、その後商品開発をしていく上での大きな拠り所になったことは間違いありません。お店のためにとは言いますが、私の脳裏に浮かぶのはセブンーイレブンの看板ではなく、それぞれのオーナーさんたちや従業員さんたち、直営店勤務の時の常連の人たちの顔でした。

そんな楽しい現場経験でしたが、大学時代から拗らせた椎間板ヘルニアがどうにも良くならず、半永久的に事務職をするのであれば地区の事務所ではなく本部でお仕事をしたいと申し出たところ、ちょうど私向けに内々に打診が来ていたらしく、面談から1週間後には本部勤務となりました。あっという間の出来事でした。

セブンーイレブンを背負う商品本部時代

商品本部での日々は驚きの連続でした。身近だったOFCさんたちとは違い気難しそうな人々の集まりのように感じられました。現場と違い女性が多かったこともあるかもしれません。自己紹介で年齢を言ったら、「いかにも若いって感じね」と嫌味を言われてびっくりしてしまいました。名刺交換もしたことがなく、電話を繋ぐことすらままならない私に、ロッカー前で根気強く訓練してくれた先輩には感謝の気持ちしかありません。現場では当たり前にあった作業割り当てや業務のコミュニケーションが明確には存在せず、商品本部では現場で働きながら学ぶことが多い印象でした。まだまだ成長過程の組織だったのだと今は思います。

配属当時の直属の上長はなんとアルバイトでお世話になったお店の開店時の担当OFCでした。開店当初、オーナーさんの苦労を知って、当時厳しいことを言いながら影ではすごく気にかけていたことを話してくれました。影で気にかけていたことは実はオーナーさんはすっかり気がついていたという話を後に知るのですが、現場思いで厳しいその上長に私はとても可愛がってもらっていました。仕事には前向きに取り組んでいましたが、事務職として配属になったものの、私自身は事務職の適正はあまりないと感じていました。あのカップラーメンを作った伝説の上司との面談の際に「事務職に慣れてしまってからマーチャンダイザーを目指せと言われても女性の人生の上で岐路に立たされる時期に判断なんてできないから、20代の若いうちにマーチャンダイザーになりたい」と偉そうに直談判し、マーチャンダイザー(MD)になったのは28歳の時でした。今では考えられないことをよく言ったもんだと思いますが、この判断は間違っていなかったと思っています。

MDとして初めての予算作成の時、伝説のMDだった上司に言われたのは「中山さん、セブンの日用雑貨は高いよね」との一言。ほぼぼやきなんじゃないかと思うその一言を真に受けて日用雑貨類の市場価格調査をし始めます。その中で目標の売価設定を決め、一部地域で値下げテストをして、全国で実施した場合の販売数の増加を計算してメーカー様に納入価格の交渉を行いました。一方で、セブンーイレブンは荒利分配という方式を採用し、商品荒利額をオーナーさんと本部で分け合うことになっています。値下げにより荒利額が下がる政策に会社はOKを出さないので、上司と何度も資料を作り直しながら社内説得も続けました。最終的にその価格変更の内容は、半期に一度オーナー様向けに行われる商品展示会で、プレス発表を行うことになりました。広報の方が用意してくださった資料を上長が発表すると同時に記者の方からどよめきが起き、カメラのフラッシュがたかれるのを発表会場で見ていた私は、自分がしている仕事の重さを初めて実感しました。午前10時過ぎに発表した政策はその日のNHKのお昼のニュースで取り上げられ業界でも非常に話題となりました。

翌日は上長と2人で直営店で各メディアの取材対応を経験しました。上司のぼやきのような指示の後、私がずっと1人で向き合ってきた価格政策はいつの間にか会社の政策となり、上長が会社を代表してコメントをしているのを見てとても不思議なことだと感じました。ただ、私がこの時一番印象に残っているのは、上司の手がずっと売り場の商品を触り、売れてなくなった商品スペースを在庫を前にスライドして埋める「フェイスアップ」を繰り返していたことです。私の時代はセブンーイレブンは入社後全員が現場配属でした。上長もまた現場にいた時の癖は抜けず、売り場を見ると勝手にそうしてしまうと言っていました。そう言った経験の上に自分の仕事があることを忘れないようにしようと思った印象的な出来事です。

そんな一大事から数ヶ月後、日用品の価格政策は大きな評価をいただき社内表彰されることになりました。特別説明の少ない(伝説ではない方の)上司から、とりあえず3分くらいなんか喋ってねと言われて表彰式に送り出されたのですが、表彰者のうち代表の3名のみがスピーチすることになっていたのを壇上で知りました。お話ししたのはアルバイト先のオーナーの面接時の言葉です。「地域で1番になる」というオーナーさんのために私は頑張らなければならないと思っているという話をした時に、年上のOFCさんたちの目が真剣にこちらを見てくれているのが嬉しかったです。その壇上でちゃっかり翌週出る担当カテゴリーの新商品をぜひ売り込んでほしいとお願いしたところ、全国のOFCさんから激励のお電話をたくさんいただき、翌日には大手メーカーの担当者が腰を抜かすような大きな発注数が店舗から続々と上がってきました。若さってこういうところに出るのかなと思うような図々しさと大胆さが、ビギナーズラックとも言えるような大きな売上を作り、結果としてMDとしてのキャリアの初期の私の仕事を象徴するような出来事になりました。

その後、化粧品や衣料品を担当し、突然九州に配属されておにぎりの開発を担当し、1年後には東京に呼び戻されてスイーツの開発を担当し、最後はサラダ・漬物を担当しました。10年におよぶマーチャンダイジング業務でのべ1000SKU以上の商品を手掛けることができたのは、現場での経験があったからに他なりません。どんなカテゴリーを担当したとしても、その商品が販売される場所はセブンーイレブンのお店です。セブンーイレブンに来るお客様に買ってもらえないものは、どんなに市場で流行していたとしても意味がないのです。このお店だだったらどんなふうに売り込んでくれるかな、あのオーナーさんは喜んでくれるだろうか、そういう気持ちで一つ一つの商品を送り出してきました。成功ばかりではないけれど、ある程度満足してもらえたのではないかと思っています。商品開発の話はまた整理して書きたいなと思っています。

苦しくもやりがいのある商品開発の仕事でしたが、2017年に退職をし一度リセットすることにしました。走り続けてきた会社員時代をゆっくり振り返る時間が欲しくなったからです。退職を決めてからは泣いてばかりでしたが、それもまたそれまでの会社員人生をリセットする良いデトックスになったように感じています。

スマキャリとの出会いとフリーランスとしての活動

退職を決めてすぐに、海外旅行にでかけました。ヨーロッパ5カ国をめぐる3週間の旅でした。初めてのドイツ、友人のいるウィーン、隣のハンガリー、ロンドンにパリと結構な移動距離でした。仕事を辞めて私が意気消沈しているのではと思った友人がフェイスブックで繰り広げられる私の珍道中にほっと胸を撫で下ろしていたと後で話してくれました。そんな心配をよそに旅をしながら思ったのは、私が行く道は自分自身で決めたいということ。そして何より食が好きということ、新しいものに触れていたいということ。その後のキャリアは全く見えていませんでしたが、お先真っ暗という感じではありませんでした。

そんな毎日の中でハローワーク通いに早くも飽きてしまい、月1回の面談を回避するため専門実践給付金対象の講座を探し、明治大学の主催するリカレント講座「女性のためのスマートキャリアプログラム(以下スマキャリ)」に出会います。休職中なのでもちろん昼のコースに申し込みをし、復職希望の主婦の方に混ざって様々な先生のプログラムを受講しました。体は休まっても、そこまで心が元気ではなかった時期に無理やり自己開示をさせられるのにはいささか苦労もありましたが、その中でアドバイスをもらったのは「あなたがやろうとしていることはスタートアップではなくてフリーランスなんじゃない?」という言葉でした。起業したらスタートアップなのかと勘違いをしていた私は、すぐさまフリーランスという言葉に飛びついてしまいました。新しいビジネスモデルを作るというより、自身の経験を活かして業務委託をもらい、様々な仕事を並行して行うことの方が自分に向いてると感じ、開業届を出して有難いことに少しずつ仕事を請け負いながら仕事を始めました。

スマキャリでは明治大学のビジネススクールの先生方の授業を受けることができました。その中でもゼミの授業はとても印象的でした。企業が直面する課題にグループで知恵を出し合って一つの解決策を出すプロセスは、会社の業務とは違う達成感がありとても面白く感じました。一方で実務経験はあるもののコトラーすらよく知らない状況ではフリーランスとして業務を行う中で、相手先との意思疎通に大きな問題が生じるのではないかと思い、MBAの進学を考え始めます。私はそのまま明治大学のグローバルビジネス研究科(以下MBS)を志し、受験の準備を始めました。先生方にも相談はしましたが、受験の準備などはほとんど1人で行いました。過去にスマキャリからMBSに進んだ方もいらっしゃたようなのですが、直接のつながりはなく研究計画作成には非常に苦労をしましたが、無事に合格をもらうことができました。

コロナの中のMBS受講と起業そして地方創生事業へ

MBSの講義は非常に面白く、毎日楽しく学生生活を送っていました。昼間は主に自宅で仕事をし夕方になると大学へ出かけていく生活でした。授業でゲストとして来られる起業家の方の話に興味を持ちつつ、フリーランスという立場の危うさに少し危機感を感じていた私は、お仕事が決まっていないにも関わらず、会社を立ち上げてしまいました。業務委託を考えてくださる企業様には、相手が個人だと契約が難しいケースがありました。契約が決まってから会社設立すればよかったのにとも後で聞かされましたが、そんなことを教えてくれるような先駆者は私の周りにいなかったのでとにかくがむしゃらで準備をした記憶があります。会社名はギボウシという花の名前の英語であるHosta(ホスタ)にしました。日本原産のこの花はアジア圏で園芸種として広がっているそうです。日本を発信基地にして世界へ羽ばたきたいという意味も込めてこの名前にしました。また、花言葉が「誠実」であり、クラインと様に誠実に向き合うお仕事をしたいという気持ちも込めています。

残念ながら2年生の授業はコロナで予定通りには始まらず、5月にオンラインで再開になりました。その後卒業するまで明治大学に通うことはありませんでした。授業はほとんどが画面越しに先生の話を聞き続けることになり、期待していた議論の時間はなかなか取れませんでした。また、起業して最も力を入れていた中国を中心とする海外事業も経ち消えてしまい、家の中で悶々とする毎日でした。起業のタイミングが悪くコロナ補助金の対象にならなかったため、本当に静かに生活をしていた感じです。それでもまだMBSという場所があって1人ではなかったことは救いでした。

コロナの前から、少しずつ情報を集めていたことがあります。それは亡くなった父の故郷である愛媛県の南予地方のことです。特に宇和島の真珠養殖は、ウィルスによる稚貝に斃死という問題を抱え、全国ニュースに取り上げられるようになっていました。自分が消費者としてその地方の産物を購入する以上に、何かその地域に関わることはできないものかと考えるようになったのです。MBS卒業と同時に賛同してくれた仲間と会社を作り活動を始めました。最初はクラウドファンディングという形で商品を発売し、その後オンラインストアをオープンさせていますが、まだまだきちんとした活動ができておらず、売上は芳しくありません。

商品化にあたり非常に難しかったのは真珠の流通過程の複雑さでした。宇和島で採れた真珠は入札などを経て業者の手に渡り、全国から買い集められた真珠と合わせて加工という工程に入ります。その後、連という状態(半製品)に加工されて売買され、ほとんどが香港経由で中国に輸出されていました。真珠の1級品の比率は約5%といわれています(諸説あります)。その5%を巡って売買が繰り返され、一つの真珠ネックレスになっています。自然の産物のためひとつひとつ個性がある真珠の色やサイズを合わせるため、一つの真珠ネックレスを作るためにバケツ1杯分の真珠が必要とも言われます。そうなると単一の産地のものよりも、全国から集めた真珠の中からネックレスを組む方が効率が良いのです。また、加工という工程も業者ごとに異なり、企業秘密ということで私もなかなか見せてもらえません。多くの人の手を介して一つの真珠のネックレスができることは消費者には伝わらず、パールネックレス流行の中、日本の多くの若者が身につけるのは安いプラスチック製か輸入の淡水パール製になっています。

また、私が前職や向き合ってきたのはマス向けの商品です。立場は変わりコンサルタントという位置付けになった今も、メーカーさんの開発する商品は小売店を通じて販売されるマス向け商品が多いです。真珠のネックレスのようにじっくり一人一人と向き合ってこだわった高付加価値の商品を売っていくというプロセスは初めてのことで、未だ具体的な解決策が見えていません。今までは小売事業者やメーカーの仮面を被った中の人として商品を作ってきましたが、これから真珠の事業に関しては私という個性を少し表現をし、知ってもらうことが大事なのではないかと思い、こうしてnoteを書き始めることにしました。

今後のこと

少し弱気なことも書いてしまいましたが、全て現在進行形のことなので状況が変わったら書き足していこうと思っています。今後仕事とプライベートで力を入れていきたいのは3つです。

一つ目は本業である商品開発のプロとしての活動です。中国での活動はオンラインにその場を移し細々と続けてきました。行き来ができるようになればまた活動を本格化していきたいです。国内でのコンサル事業も業種や企業規模に関わらず、幅を広げていきたいと思っています。コンサルタントとして外部からメーカー様に関わることは、学生時代に感じた異文化交流に近いものを感じています。より多くの企業様に良い異文化体験として作用できればいいなと考えています。そしてできたらスタートアップ企業に関わっていきたいなと思っているところです。私はゼロイチよりも、2、3辺りから成長させる方が得意なんじゃないかと思っているので、良い企業様に巡り会えたらと考えています。

二つ目は地方創生事業です。こちらはビジネスモデル構築から少し考え直さないと資本金を溶かすばかりなので、今年中に攻め方を変えていきたいなと思っています。海外での販売や国内でも展示会などリアルな場への出展を考えていきたいです。また、自社のブランド運営と同時に愛媛県の企業様との協業も準備していきたいです。こちらも作戦を考え中。ご興味がある方はご連絡いただけたらと思います。

三つ目は今の仕事のきっかけになった「スマキャリ」への恩返し。スマキャリ修了生は総勢300名を越え、非常に大きなコミュニティになりつつあります。様々な人生を経て、スマキャリに参加して共に勉強した仲間は私にとってはかけがえのない出会いとなりました。その一方でその後のMBS進学や起業において相談できるほどの周りと交流が持てなかったのも、そういった場がなかなか作れなかったことが原因と思っています。もともと内向的で自分で考えて答えを出したい私にとって、交流会を主催するというのは非常に慣れない作業で苦労もありますが、やるたびに新しい発見があり勇気をもらっています。大事に育てていきたいと考えています。

長々と自分語りをしてきました。これからは定期的に商品開発のこと、地方創生事業のこと、そしてスマキャリのことなどを書き綴っていきたいと思っています。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


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